英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)  一1563年制定一
第1条 三位一体の信仰について
第2条 真実に人となられた御言、すなわち神の御子について
第3条 キリストの冥府(よみ)への降下について
第4条 キリストの復活について
第5条 聖霊について
第6条 救いのために聖書は完全であることについて
第7条 旧約聖書について
第8条 3信経について
第9条 原罪について、もしくは生得罪について
第10条 自由意志について
第11条 人の義とされることについて
第12条 善い業について
第13条 義とされる前の業について
第14条 余功の業について
第15条 キリストのみ無罪であることについて
第16条 洗礼後の罪について
第17条 予定と選びについて
第18条 キリストの名によってのみ永遠の救いが得られることについて
第19条 教会について
第20条 教会の権威について
第21条 公会議の権威について

第22条 煉獄について
第23条 教会の聖務について
第24条 教会では会衆の理解できる言葉で話すことについて
第25条 聖奠(秘跡)について
第26条 聖職者の欠陥が聖奠(秘跡)の効果をそこなわないことについて
第27条 洗礼について
第28条 主の晩餐について
第29条 邪悪の者は主の晩餐にあずかってもキリストのからだを食することにならないことについて
第30条 両種陪餐について
第31条 十字架上で成就したキリストの唯一の供え物について
第32条 司祭の結婚について
第33条 陪餐停止を命じられた者を避ける仕方について
第34条 教会の伝承について
第35条 説教集について
第36条 主教および聖職の聖別について
第37条 国の統治者について
第38条 キリスト者の財産は共有でないことについて
第39条 キリスト者の誓いについて
第39箇条解説 八代 崇


第1条 三位一体の信仰について
唯一の生ける神のみがおられる。この神は身体も部分も感情もなく、無限の力、知恵、善に満てる方であり、すべての見えるものと見えないものの造り主、またその保全者である。また、この神性の一致の中に三位格がある。それは実体と力と永遠性において一体である父なる神、子なる神、聖霊なる神である。

第2条 真実に人となられた御言、すなわち神の御子について
御子は、御父の御言、真実にして永遠の神なる御父から永遼に生まれ、御父と一体であり、祝福された処女の胎に宿り、その身体から人性を取った。したがって、二つの充全で完全な本性、すなわち神性と人性とは唯一の位格の内に合わせられ、決して分けられることのない真の神、真の人である唯一のキリストである。御子は真実に苦難を受け、十字架につけられ、死んで葬られ、御父と私達とを和解させ、原罪ばかりでなく、人間のすべての実罪のために、犠性になられた。

第3条 キリストの冥府(よみ)への降下について
キリストが私達のために死に、葬られたと同様に、キリストが冥府(よみ)に降られたことを信ずべきである。

第4条 キリストの復活について
キリストは死から真実に甦えり、骨肉及び全き人間性に属するはずのすべてのものを再び取って天に昇り、終りの日にすべての人びとを審くために再び来られる時まで、そこに座しておられる。

第5条 聖霊について
御父と御子から出る聖霊は、実体と権能と栄光において御父と御子と全く同一であり、真実にして永遠の神である。

第6条 救いのために聖書は完全であることについて
聖書は救いに必要なすべての事柄を載せている。したがって、聖書の中に書かれていないこと、あるいは聖書によって証明されないことは、信仰箇条として信ぜられるべきもの、あるいは救いに必要不可欠と考えられるべきものとして何人にも要求されてはならない。聖書とは、教会においてこれまでその権威が疑われることのなかった旧約と新約の経典のことである。

経典の名称と巻数
創世記
出エジプト記
レビ記
民数記
申命記
ヨシュア記
士師記
ルツ記
サムエル記上
サムエル記下
列王紀上
列王紀下
歴代志上
歴代志下
エズラ第1書(エズラ記)
エズラ第2書(ネヘミヤ記)
エステル記
ヨブ記
詩篇
箴言
伝道の書
雅歌
4大預言書
12小預言書(訳注・これら大・小預言書とは、イザヤ書以下マラキ書までの文書をすべて含む)。

私達は、一般に受け容れられている新約聖書のすべての文書を受け容れ、それらを経典と見倣す。

教会は次の諸書を(ヒエロニムスが述べているように)生活上の模範と道徳上の教訓のために読むが、それらを根拠としていかなる教義をも定めることはしない。それらの文書とは次の通りである。

エズラ第3書(訳注、和訳では「第1書」)
エズラ第4書(〃〃「第2書」)
トビト書
ユデト書
エステル書残篇
ソロモンの智恵
ベン・シラの智恵
バルク書
エレミヤの書簡
3童児の歌
スザンナ物語
ベルと龍
マナセの祈祷
マカベア第1書
マカベア第2書

第7条 旧約聖書について
旧約聖書は新約聖書に矛盾するものではない。なぜなら、旧・新約両聖書において、神と人との唯一の仲保者であり、神でありまた人であるキリストによって永遠の生命が人類に与えられているからである。したがって、昔の父祖達がうつろい行く約束だけを追い求めたとする偽わりの説には耳を傾けるべきではない。律法は神からモーセにより与えられたものではあるけれども、礼拝儀礼に関してはキリスト信徒を束縛するものではなく、またその政治的な律法もいずれの国でも必ず受け容れられるべきものとはいえない。しかしそれにもかかわらず、キリスト信徒は誰でも、道徳的な誡律への服従から免かれるものではない。

第8条 3信経について
3信経、すなわちニケヤ信経、アタナシオ信経、およびいわゆる使徒信経は、全面的に受け容れられ、また信ぜられるべきものである。なぜなら、それらは聖書の最も確かな保証によって証明されるからである。

第9条 原罪について、もしくは生得罪について
原罪は(ペラギウスがいたずらに述べているように)アダムに従うことにあるのではない。それはすべての人間の本性の欠陥と腐敗であって、アダムの子孫に自然的に生じているものである。それによって、人間は原義から遠く離れ去り、その本性は悪に傾くものとなっているために、肉は常に霊にそむく欲望に走るのである。このため、この世に生を受けたすべての人びとにある原罪は、神の怒りと刑罰を受けるべきものである。

第10条 自由意志について
アダムの堕罪以後、人間は自分自身の本来の力や善い業によって神への信仰に立ち返り、神を呼び求める姿勢に自らを正すことが出来ない状態にある。したがって、キリストによって神の恩恵が私達の上に働いて、私達が良い志を抱くようになり、またそのような良い志を抱いた時に私達と共に働いて下さることがなければ、私達は神に喜ばれ、受け容れて頂けるような善い業を行なう力を持たないのである。

第11条 人の義とされることについて
私達が神の前で義とされるのは、ただ、私達の主てあり、救主であるイエス・キリストの功績のゆえに、信仰によって義とされるのであって、私達自身の業や価値によるのではない。したがって、私達が信仰によってのみ義とされるということは最も健全な教理であって、義認に関する説教の中で更に広く述べられているように慰めに満ちているものである。

第12条 善い業について
信仰の果実であり、また義とされた後の善い業であっても、それは私達の罪を取り去り、神の審判の厳しさを耐え得させることは出来ない。けれども、その善い業はキリストにおいて神に喜ばれ、受け容れられるものであって、真実の生きた信仰から必然的に生じて来るものである。そのように、丁度樹がその果実によって見分けられるように、生ける信仰も善い業によって知られるのである。

第13条 義とされる前の業について
キリストの恩恵と聖霊の感動が与えられる以前に為された業は、イエス・キリストヘの信仰から生まれたものではないので神を喜ばすものではなく、また人を恩恵を受けるにふさわしいものとするものでもない。即ち(スコラ神学者達が述べているように)、それは報償の恩恵を受けるに値いするものではない。むしろ、そのような業は神が望み、またそうするように命じられたものではなかったのであるから、それは罪の性質を持っていることは疑いないことである。

第14条 余功の業について
いわゆる余功の業、すなわち神の誠命以上の業を自ら行なうように教えることは、高慢と不敬虔を免かれることが出来ない。なぜなら、このような業によって、人びとが為すべき業を神に対して為すばかりでなく、為すべき業以上に神のために業を行なったと主張することになるからである。ところがキリストは次のように明らかに言われている。あなたがたは自分に命じられたすべてのことを行なった時でも、私達は何の値打ちもない僕(しもべ)ですと言いなさい、と。

第15条 キリストのみ無罪であることについて
私達人間の本性を真実に受けられたキリストは、(ただ罪のみを除いては)すべてのことにおいて私達と同じくなられた。キリストは、その肉と霊において明らかに罪がなかった。彼は汚れなき小羊として来られ、ただひとたび御自身を犠牲として捧げて世の罪を取り除いた。しかも(聖ヨハネが述べているように)彼のうちに罪がなかったのである。しかし、キリストを除く私達すべての者は(洗礼を受け、キリストにおいて再び生まれたのではあるが)多くのことにおいて罪を犯している。そこで、もし私達が自分には罪がないと言うならば、私達は自らを欺くものであり、また私達のうちに真理がない。

第16条 洗礼後の罪について
洗礼後自ら進んでおかした大罪は、すべて聖霊を汚す罪、即ち赦されない罪というわけではない。したがって、洗礼後にこのような罪をおかした者に悔い改めの機会を拒んではならない。私達が聖霊を受けた後に、与えられた恩恵から離れて罪に陥いることがあっても、神の恩恵により再び立ち直り、自分の生活を改めることも出来る。そこで、この世に生きている間もはや罪を犯すことがあり得ないとか、あるいは、真に悔い改めたとしても罪の赦しの余地がないとか言う者は、罰せられるべきである。

第17条 予定と選びについて
(永遠の)生命への予定は神の永遠の目的である。これによって(世界の基がすえられる以前から)神が人類の中からキリストのうちに選ばれた者達を呪いと刑罰から解放し、彼らを栄光に帰せられるべき器として、キリストによって永遠の救いに入れることを私達には隠されている御計画によって絶えず決定していたもうのである。したがって、神の素晴らしい恩恵を与えられている人びとは、神の目的に従って、時宜に応じて働きたもう聖霊によって召されるのである。彼らは恩恵によって召命に従い、値いなしで義とされ、養子として神の子とされ、ひとりの御子イエス・キリストの像に似る者とされ、敬虔に善い業のうちに歩み、ついに神の慈悲によって永遠の浄福に至る。予定について、またキリストにある選びについて敬虔な想いを寄せることは、敬虔な人びとにとって快く楽しい、言葉で言い表わし難い慰めである。またこのような人びとは、肉と地上の肢体の働きを殺し、彼らの心を高い天上の事柄にまで引き上げて下さるキリストの御霊の働きを感得する。なぜなら、そのような敬虔な想いは、キリストによって与えられる永遠の救いの信仰を確立し、また強固にすると共に、神への愛を一層燃え立たせてくれるからである。そこで、キリストの御霊を持たないせんさく好きの肉欲的な人びとにとって、神の予定の宣告を絶えず眼のあたりにすることは最も危険な落し穴であって、それによって悪魔が彼らを絶望の中におとし入れるか、あるいは絶望に劣らず危険極まりない最も汚らしい悲惨な生活の中に突き落すことになる。更に私達は、聖書の中で一般的に示されているような仕方で、神の約束を受け容れなければならない。また、神の御言によって私達は明白に宣言された神の意志が、私達の行ないを通してあとづけられるはずである。

第18条 キリストの名によってのみ永遠の救いが得られることについて
すべての人は自分の信奉する誠律、あるいは宗派によって救われると主張し、したがってその誡に従い、また自然の光に従って、勤勉に自分の生き方を形作るべきだとみだりに言う者は呪われるべきである。なぜなら、聖書は人びとの救われるのはイエス・キリストの御名によってのみであると、私達に教えているからである。

第19条 教会について
キリストの可見的教会は信仰者の会衆である。そこでは、神の純正な御言が説教され、また聖奠(秘跡)について必要とされている事柄に関してキリストの御命令通りに聖奠(秘跡)が正しく執行されなければならない。エルサレム、アレキサンドリヤ、およびアンテオケの教会が誤りをおかしたように、ローマの教会もまた、その行状や礼拝の仕方においてばかりでなく、信仰の事柄においても誤りをおかした。

第20条 教会の権威について
教会は礼拝儀式を定める力と、信仰上の論争に関する権威を持つ。しかし、教会が神の記録された御言に矛盾する事柄を定めることは許されないし、また聖書の一つの箇処を他の箇処と対立するような仕方で説明してはならない。そこで、教会は聖書の証人であり、また守護者ではあるが、聖書に対立することはいかなることも決めてはならないし、また聖書以外のいかなることも、救いに必要なものとして信ずることを強要してはならない。

第21条 公会議の権威について
公会議は君主の命令と意志なしでは召集されない。また公会議が召集される時でも(それはどこまでも人間の集会であり、そのすべてが聖霊と神の御言によって治められているわけではないので)、誤りをおかすかも知れない。現に、神に関する事柄においてさえも、時には誤りをおかしたこともあった。したがって、公会議によって救いに必要な事柄として定められたものでも、それが聖書に基づくものであることが明かにされない限り、力も権威も持たない。

第22条 煉獄について
煉獄、免罪(贖宥)、聖像および遺物の礼拝と崇敬、また諸聖人の執り成しに関するローマ教会の教理は、虚しく作られた勝手な盲信であって、聖書に根拠をもたないばかりか、むしろ神の御言に反するものである。

第23条 教会の聖務について
誰でも法に則って召され、その職務を行なうために派遣されるまでは、教会において公けに説教を行なう職務を引き受けたり、聖奠(秘跡)を執行することは許されない。そこで、法に則って召され、派遣されていると私達が判断すべき人びとは、主のブドウ園に仕え人を召して派遣する権威を教会によって公けに与えられている人びとによって選ばれ、この務めに遣わされた人びとでなければならない。

第24条 教会では会衆の理解できる言葉で話すことについて
会衆の理解できない言葉で公祷を捧げたり、聖奠(秘跡)を執行することは、明らかに神の御言と原始教会の慣行に反することである。

第25条 聖奠(秘跡)について
キリストが定めた聖奠(秘跡)はキリスト者の信仰の印、あるいは象徴であるばかりでなく、恩恵と私達に対する神の好意の確かな証拠であり、またその有効なしるしである。これによって、神は私達のうちに不可見的に働き、私達の神への信仰を活気づけるだけではなく、それを強固にして下さるのである。福音において私達の主キリストが定められた聖奠(秘跡)は二つである。即ち、洗礼と主の晩餐である。いわゆる五つの聖奠(秘跡)は、堅信礼、告解、聖職按手礼、聖婚、抹油であるが、これらは、一部は使徒達が誤って模倣したことから生じ、一部は聖書の中でも許された慣習であったが、神の定めたもうた可見的なしるしでも儀式でもないので、洗礼や主の晩餐と同等な聖奠(秘跡)ではなく、福音の聖奠(秘跡)とは見倣されない。聖奠(秘跡)は仰ぎ視るためでも、運び廻るためでもなく、私達が正しくそれを用いるようにキリストによって立てられたのである。そこでこれを正しく受ける時にのみ聖奠(秘跡)は健全な効果、もしくは作用を及ぼすが、これをふさわしくないままで受ける者は、聖パウロが言っているように、自らさぱきを招くことになる。

第26条 聖職者の欠陥が聖奠(秘跡)の効果をそこなわないことについて
可見的教会においては、常に悪人は善人と入り混っており、時には悪人が御言と聖奠(秘跡)の執行における主要な権威を持つようなこともあるけれども、彼らは自分自身の名によってではなくキリストの名によって執行し、またキリストの委任と権威によって奉仕するのであるから、私達は神の御言を聞き、また聖奠(秘跡)を受けるに際して、このような人びとの職務を用いてもよいのである。キリストの制定された儀式の効果が彼らの邪悪さによって取り去られることもないし、自分達のために執行された聖餐を信仰をもって正しく受ける人びとから神の賜物の恩恵が減じられてしまうこともない。聖奠(秘跡)は、たとえ悪人によって執行されたとしても、キリストの制定と約束の故に有効である。けれども、邪悪な聖職を審問し、また彼らの罪を知った人びとの訴えを聞き、最終的に正しい裁判の結果有罪となり、彼らが免職とされることは、教会の規律に属することである。

第27条 洗礼について
洗礼は信仰告白のしるし、キリスト者とそうでない者とを識別する標識であるばかりでなく、再生もしくは新生のしるしでもある。これによって、丁度道具によって為されるように、洗礼を正しく受ける者は教会に結び合わされる。罪の赦しの約束と聖霊によって私達が神の子とされるという約束とが可見的にしるしを与えられ、封印される。信仰が堅められ、神への祈りによって恩恵が増し加えられる。幼児の洗礼は、キリストの制定に最も適合するものとして、教会において必ず保持されるべきものである。

第28条 主の晩餐について
主の晩餐は、キリスト者が相互に守るべき愛のしるしであるばかりでなく、それはむしろキリストの死による私達の贖いの聖奠(秘跡)である。そこで、これを正しく、ふさわしく信仰をもって受ける者にとっては、私達のさくパンはキリストのからだにあずかることであり、同様に、祝福の杯はキリストの血にあずかることである。主の晩餐における実体変化(即ち、パンとブドウ酒の実体の変化)は、聖書によって証明されることが出来ない。それは聖書の明瞭な言葉に反し、聖奠(秘跡)の本性を放棄し、多くの迷信に機会を与えた。キリストのからだは、晩餐において、ただ天的な、また霊的な仕方によってのみ与えられ、受けられ、食せられる。キリストのからだが晩餐において受けられ、食せられる方法は信仰である。主の晩餐の聖奠(秘跡)が保存され、運び廻され、また奉挙されたり、あるいは拝礼されたりするのは、キリストの定めによるものではない。

第29条 邪悪な者は主の晩餐にあずかってもキリストのからだを食することにならないことについて
邪悪な者、また生きた信仰をもたない者は、キリストのからだと血の聖奠(秘跡)を(アウグスチヌスが言っているように)肉体的に、また可見的に、自分の歯で噛むことがあっても、彼らは決してキリストにあずかる者ではなく、むしろこのように大切なしるし、即ち聖奠(秘跡)を飲み食いすることによって自らに審きを招くのである。

第30条 両種陪餐について
主の杯を信徒に与えることが禁じられてはならない。なぜなら、主の聖奠(秘跡)の両種は、キリストの定めと命令によって、すべてのキリスト者に全く同様に与えられるべきものとされているからである。

第31条 十字架上で成就したキリストの唯一の供え物について
ただひとたび為されたキリストの奉献は、原罪も実罪も含む全世界の罪のための完全な贖罪、宥和、充足であり、これ以外には罪の為に充足させ得るものはまたとない。それ故に、生者や死者が苦痛や罪責を免かれることができるように司祭がキリストに捧げると一般に言われているようなミサの供え物は、神を冒?する作り話であり、危険な虚偽である。

第32条 司祭の結婚について
主教、司祭、および執事は独身の誓約をしたり、結婚を避けることを、神の律法によって命じられてはいない。それ故、他のすべてのキリスト信徒と同様に、神に仕えるためにその方が良いと判断するならば、自らの判断に従って結婚することも許される。

第33条 陪餐停止を命じられた者を避ける仕方について
教会の公けの懲戒処分を受けて教会の交わりから正当に除外され、陪餐の停止を受けた者は、悔い改めによって公けに和解され、この人に権威を持つ裁判官によって教会に受け容れられるまでは、信者の全会衆から異教徒また取税人として扱われなければならない。

第34条 教会の伝承について
伝承や儀式はどこにおいても同一であったり、あるいは殆ど似かよったものであったりする必要はない。なぜなら、これまで伝承は常に多種であったわけで、国、時代、人びとの慣習の相違に従って変化することもあるからである。そこで、何事も神の御言にそむいて定められてはならない。神の御言にそむくものではなく、また一般の権威によって定められ、是認された教会の伝承や儀式を、自分の個人的判断で意図的に公然と破る者は、教会の一般的秩序にそむき、統治者の権威をそこない、弱い兄弟達の良心を傷つける者として公けに訓戒されるべきである。(それは他の人びとが同様なことをするのを怖れさせるためである)。すべて特定の教会、または国民教会は、それぞれ、人間の権威によってのみ定められる教会の礼拝儀式を制定し、改訂し、また廃止する権威を持っている。したがって、すべてのことは徳を立てるために行なわれるべきである。

第35条 説教集について
第2説教集は、本条の終りにその表題が掲げられているが、エドワード6世の時に発行された第1説教集と同様に、信心深く健全な教理を含み、現代でも必要なものである。それ故に、私達は、これらの説教が会衆によって理解されるように、教会の中で聖職によって熱心に、また明瞭に読まれるべきであると考える。

説教の表題
1教会の正しい使用について
2偶像礼拝の危険について
3教会の修理と清掃について
4善行について――断食について
5暴飲暴食について
6過度の美服に対して
7祈りについて
8祈りの場所と時間について
9公祷と聖奠(秘跡)が理解できる言葉で行なわれるべきことについて
10神の御言に対する畏敬について
11信施について
12キリストの降誕について
13キリストの受難について
14キリストの復活について
15キリストのからだと血の聖奠(秘跡)をふさわしく受けることについて
16聖霊の賜物
17昇天前祈祷日のため
18結婚の義務について
19怠惰に対して
20反乱に対して

第36条 主教および聖職の聖別について
近年、エドワード6世時代に発行され、同時に議会の権威によって確認された大主教と主教の聖別、ならびに司祭と執事の聖職按手の式文は、このような聖別と按手に必要なことをすべて載せている。この式文には、迷信的なことも、不敬虔なことも一切ない。それ故に、前述のエドワード王の第2年から今日に至るまで、すべての聖職はこの祈祷書の儀式に従って聖別、あるいは按手され、今後も同一の儀式に従って聖別、あるいは按手されるであろう。私達は、このような聖職を、正しく、秩序にしたがって、合法的に聖別され、按手された者と認める。

第37条 国の統治者について
女王の主権は、このイングランドの領土および女王の統治領の全域にわたって最高の権力を有する。それが教会のものであろうと世俗のものであろうと、この領土内のすべての財産の最高の統治権はいかなる場合でも王権に属するものであり、どのような外国の管轄権にも属せず、また属すべきではない。私達は最高の統治権を女王の主権に帰すべきものとしているが、その称号によって一部の中傷を好む人びとが苦々しく思っていることを知っている。私達は、君侯が神の御言と聖奠(秘跡)を執行することを認めていない。そのことについては、最近私達の女王エリザベスによって発布された布告が最も明瞭にそれを証明している。しかし、私達が聖書の中で読むように、すべての敬虔な君侯に対して神御自身によって常に与えられた唯一の特権は、それが教会のものであるかこの世のものであるかを問わず、神によって彼らの責任に委ねられたすべての財産と階層を治めることであり、またこの世の剣を以って頑固で邪悪な人びとを治めることである。ローマの主教は、このイングランドの領土においていかなる管轄権も持たない。この王国の法律は、キリスト者の極悪非道な罪に対しては、死刑による処罰を行なうであろう。キリスト者にとって、統治者の命令に従って武装し、従軍することは正当なことである。

第38条 キリスト者の財産は共有でないことについて
キリスト者の富や財産は、再洗礼派の人びとが誤って誇っているように、その権利、所有権、および占有に関して共有ではない。しかしながら、すべての人は、自分の所有するものの中から自分の能力に従って、貧者に対して自由に施しをなすべきである。

第39条 キリスト者の誓いについて
空虚な、また軽率な誓いは、私達の主イエス・キリストにより、また使徒ヤコブによって禁じられていることを私達は明言する。しかし、キリスト教は信仰と愛のために、統治者が要求する時には人が誓いをすることを禁じない。ただその時には、預言者の教えに従って、正義と審判と真理において誓われなければならない。

〔塚田理訳〕

『39箇条』解説
英国聖公会は、すでにヘンリー8世在位中から、一方ではローマ・カトリック教会に対し、他方では再洗礼主義によって代表される急進主義に対して自己の教義的立場を明確化する必要に迫られ、一連の文書を作成してきた。1553年、クランマー大主教は、ルター派との話合いから生まれた『10箇条』(1536)と『13箇条』を参照しつつ『42箇条』を作成した。同じ1553年にメアリの反動期が始まったため、ルター主義の色彩の濃いこの『42箇条』は廃棄されたが、エリザベスの登位(1558)とともにその改訂公刊が強く求められるようになった。1563年、カンタベリー大主教パーカーは同僚主教に諮った上、『42箇条』から4箇条を削除し、新しく4箇条を加えた草案を聖職会議に提出した。草案は聖職会議でさらに2箇条が削除された上で承認された。この箇条には『ヴュルテンベルク信仰箇条』の影響がうかがえる。しかし、エリザベス女王がローマ教徒に異論のある第29条の削除を命じたため、公けにされたのは『38箇条』であった。1570年、法王ピウス五世はエリザベス破門に踏み切った。翌1571年の議会に提出された法案は、第29条を含む『39箇条』として承認可決され、全聖職者が同意すべきこととされた。『39箇条』にはラテン語版と英語版がある。1563年のラテン語版はすぐ英訳され、1571年に議会にかけられた法案は、この英語版に第29条を補ったものであった。しかし同年の聖職会議は改めてラテン語版を承認したので、両版は権威においては等しいとみなされている。『39箇条』は英国聖公会の教義的立場を明確にする箇条ではあるが、全教会の信仰告白である「信経」とは違って、「告白」するものではない。同意も聖職者以外には要求されなかったし、オックスフォード、ケンブリッジ両大学の場合も、教会ではなく大学が『39箇条』への同意を教職員・学生に要求したのであるが、19世紀以降この要求も放棄された。日本聖公会も組織成立(1887)にあたって、『39箇条』を特定の時代の特定の教会が特定の問題に対処するために作成した文書と判断し、その採用を見合せたのである。

〔八代崇〕