聖書の人物

(6)サラ(創世記より)

『「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。』(創世記18・10〜12)

アブラハムとその妻サラとの間には子どもがないまま、二人はすでに老境に達していた。しかし神は、サラに男の子が生まれると告げ、アブラハムに多くの子孫を得させるという約束を成就しようとされる。そのお告げを初めて聞いたとき「アブラハムはひれ伏して笑い」、「百歳の者にどうして子が生まれよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」と心の中で言ったが(創世記17・17)、サラの場合も同様であった。

このアブラハムとサラの笑いの物語は、神的なものと人間的なものとのリアルな触れあいを示す興味ぶかいテキストである。あなたがたに子を授けるという神の思し召しはまことにありがたいものであるけれども、二人の生の現実はそれに適合していなかった。永遠と時間、神と人間、宗教的真理とこの世の現実、それらはたがいにすれ違っており、結局別々なものでしかないように見えた。この状況においてなおかつ神を信じる信仰とは、アブラハムのように、ひれ伏して「笑う」こと、またサラのように心の中では笑いつつ、神に対しては「わたしは笑いません」とうわべをとりつくろうことであっただろう(創世記18・15)。だが神は、この人間の笑いの信仰を許容し、それをふまえながら、それを大いなる驚きに変える。こうして九十歳のサラはみごもり、嫡子イサクを生んだ。(佐伯晴郎著「聖書の人々」より)

この絵は、創元社発行の「原色聖書物語1」(サムエル・テリエン編)に載っていた、サラの笑う場面です。

【聖書の人物】過去のデータ
(1)アダム
(2)エバ
(3)カインとアベル
(4)ノア
(5)アブラハム

熊本聖三一教会