聖書の人物

(74)

 十字架上のひとり(ルカ福音書より)

『十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。』(ルカ23・39〜42)

イエスが十字架の刑に処せられたとき、同様の囚人ふたりがイエスをはさんで右と左の十字架につけられた(ルカ23・32以下)。この中のひとりは処刑の激痛にあえぎながらイエスをののしったが、別なひとりはそれをたしなめ、イエスに救いを期待した。ルカの伝えるところでは、イエスは彼に、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイス(天国)にいるであろう」と言った(23・43)。つまりイエスは、この囚人に対し、処刑場から神の国への直行を約束したのである。

十字架刑というのは、イエスだけが受けた極刑ではなかった。当時のローマ帝国の支配者たちは、権力に反抗する奴隷や下層民を十字架につけることにより、大多数の被圧迫階級に対する見せしめにした。前4年にクィンクティリウス・ウァルスというローマの行政長官は、反乱したユダヤの民衆約2000人をエルサレム周辺で十字架刑に処したという(土井正興『イエス・キリスト ―― その歴史的追求』。

イエスは十字架の刑を受けて死ぬことによって、この極刑に処せられた当時の受刑者たちの群れに加わり、その痛みと屈辱と言語に絶する死苦を味わったのであった。信者たちの罪のゆるしとしての十字架の意義を強調するだけではなく、強大な政治権力のもとでの威嚇の道具としての十字架刑そのもの、そしてその上に釘づけにされて死んだ無数の名もない人々のことを同時に想起することによってこそ、イエスの十字架の死の意義は一段と深まるのである。(佐伯晴郎著「聖書の人々」より)

この絵は、『イエスと出会う ― 福音書を読む』(オリエンス宗教研究所/教文館)に出てくる挿絵です。

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