第4章 教会における神の啓示
啓示のドラマだけが、神様についての知識を私たちに与えてくれる源泉というわけではありません。聖公会は、私たちの信仰の土台であり権威を3重に主張します。それは、聖書と伝統と理性です。さらに、私たちはこの3重の権威を3本足の椅子のように主張します。どれか1つの脚を取ると、倒れてしまうでしょう。

聖書

聖書は椅子の最初の脚です。私たちの聖書は、男女の人間への神様の啓示の記録です。

聖書はいろんな時代、どこにおいても議論されていますので、神様についての知識を与える私たちの最高の源泉と言えるでしょう。そして、聖公会は、聖書に含まれなかったり、聖書から証明できないどんな真理や教理も要求することはありません。

伝統

聖書は私たちが持つ啓示の最高の源泉です。しかし、信仰者は、聖書に書かれていることだけに留まって考えるようなことはしません。初代教会の時代から、教会の偉大な人々は、聖書の啓示に彼ら自身の神体験の光を当てて、学んできました。ですから私たちは、聖公会の中の、独特の伝統の相続人なのです。知識と祈りと経験の伝統を無視するのは、愚かなことです。この独特の伝統は椅子の第二の脚です。

信経 ― 使徒信経とニケヤ信経、これらはその伝統から生み出されました。

信経

教会は初代から、その会員になることを希望する人にイエスへの信仰の告白を要求してきました。

最初の信経は、おそらく簡単な声明だったでしょう。「私はイエスを主と信じます」。またパウロは『口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。』(ローマ10・9)。『こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。』(フィリピ2・10〜11)と書いています。

2世紀の終わりまでに、この最初の大変簡潔な信経は、質問形式の信経に発展しました。一種の質問と答えのカテキズムが、洗礼式の中で、新しい回心者に「質問」の形で用いられました。ヒッポリトスが200年頃にこのような信経を書いています。

「そして、洗礼を受けようとする人が水のところに下りて行く時、執行者は、彼に手を置いて、そしてこのように言う。『あなたは、全能である父を信じますか。』すると受洗者は『信じます。』と言い、直ちに彼の額に手を置いて先ず一度洗礼する。この後彼に言う。『あなたはキリスト・イエスを信じますか。神の子、聖霊によって処女マリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、死に、三日目に死から再び起き上がり、天に昇られ、父の右に座られた。そして生きている者と死んだ者を裁くために来られることを信じますか。』そして彼が『信じます。』と言うと、二度目の洗礼をする。そして彼に言う。『あなたは聖霊と、聖なる教会と、そしてからだのよみがえりを信じますか。』そして、受洗者が『信じます。』と言うと、三度目の洗礼をする。」

これを今日の信経の横に置いてみてください。すると類似は明白です。しかし、まだ、このヒッポリトスの書いた信経は、各地方教会の独自の信経がたくさんあるうちの一つに過ぎませんでした。

4世紀になって、最初の固定し、公けに文章化されたものができました。これらは広く教会で唱えられた信経です。それらは新しい回心者の教育や、洗礼の時の公けの信仰告白に用いられました。そして、私たちの使っている使徒信経はそのような信経の一つだったのです。

わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。また、その独り子、主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに降り、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇られました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこから主は生きている人と死んだ人とを審くために来られます。また聖霊を信じます。聖なる公会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信じます
アーメン   (使徒信経)

使徒信経

どうして「使徒信経」と言うようになったのか、誰も知りません。伝説では、使徒たちが、聖霊降臨日に、この信経を作った、と言われています。もっと本当らしい話は、「それがローマ教会の信経だったからだ」、と言われています。ローマ教会は12使徒のひとりであるペトロによって設立された「使徒」の教会だったからというのです。

ニケヤ信経

ニケヤ信経は違った発展をしました。初代の信経のように教育や洗礼の時の公けの信仰告白にも使われました。しかし、もう一つの使われ方をしました。正しい教えの試験のために使われたのです。

紀元319年、アレクサンドリアの教会の指導者であるアリウスは、「イエスは神ではなく造られた存在であり、半分神で半分人間だ。」と教え始めました。この教えは、コンスタンチヌス皇帝が干渉しなければならないまでに、教会の中で議論され、広がっていきました。皇帝はニケヤに教会の指導者たちの会議を召集しました。会議はアリウスに反対し、のちに教会が受け入れたひとつの信経に同意しました。それが今日ニケヤ信経と言われるようになったものです。

「造られず、生まれ、父と一体です。」という言葉が、アリウスの教えと戦い、正しい信仰を確保するために、特にニケヤ信経に取り入れられました。

聖公会のいくつかの祈祷書には、第3の信経、アタナシオ信経が含まれています。これは「私は信じます」とか「私たちは信じます」という言葉では始まらないので、本当の意味の信経(信じます)ではなく、「救われることを願うものは」という書き出しです。アタナシオ信経と呼ばれるものは、おそらく信経についての最高傑作の聖歌として作られたものでしょう。

39箇条

39箇条は、私たち聖公会の伝統のもうひとつの重要な部分を表現しています。

16世紀の宗教改革の間、英国教会はローマ教会とヨーロッパの改革教会に対して、自分たちの信仰を定義する企てをしました。39箇条は、その定義の作品です。

39箇条は、信経ではありません。16世紀の特別な論争や聖公会の立場についての論争の短い声明です。

28条
「主の晩餐は、キリスト者が相互に守るべき愛のしるしであるばかりでなく、それはむしろキリストの死による私たちの贖いの聖奠である。そこで、これを正しく、ふさわしく信仰をもって受ける者にとっては、私たちのさくパンはキリストのからだにあずかることであり、同様に、祝福の杯はキリストの血にあずかることである。
主の晩餐における実体変化(即ち、パンとぶどう酒の実体の変化)は、聖書によって証明されることができない。それは聖書の明瞭な言葉に反し、聖奠の本性を放棄し、多くの迷信に機会を与えた。
キリストのからだは、晩餐において、ただ天的な、また霊的な仕方によってのみ与えられ、受けられ、食せられる。キリストのからだが晩餐において受けられ、食せられる方法は信仰である。
主の晩餐の聖奠が保存され、運び廻され、また奉挙されたり、あるいは拝礼されたりするのは、キリストの定めによるものではない。」

たとえば28条は、「主の晩餐について」ということになっていて、パンとぶどう酒は実際にキリストの体と血になる、というローマカトリックの聖餐理解を退けています。しかし、同時に当時のプロテスタントの、聖餐は記念の礼拝に過ぎない、という教えも退けているのです。

39箇条は、信経として扱われたことはありません。聖公会の牧師は、祈祷書と39箇条に述べられている教理が「神様の言葉にかなったものである」ということを断言することと、それらを否定するいかなることも教えないことを要求されています。しかし、信徒は39箇条に同意することは要求されていません。

39箇条の問題は、今日では非常に時代遅れで、明らかに違った時代の宗教的論争の反映です。しかしながら、それらは、現在の私たちを形成することになった、伝統の部分、思想と表現の部分として残っているのです。
(日本聖公会では39箇条は用いられていません。)

Q1.聖公会が信仰の土台として、その権威を主張している3つのものは何ですか?

Q2.使徒信経ができあがるまで、信経はどのような用い方をされていましたか?

Q3.「使徒信経」という名称は、どうしてつけられたのでしょうか?

Q4.ニケヤ信経が作られた目的は何だったのでしょうか?

Q5.39箇条の存在を知っていましたか?28条について、どう思いますか?

  ヒッポリトス(170〜236)
 3世紀の最も重要なローマの神学者。
 最も興味深い著作は「使徒の伝承」で、
 これは3世紀初期のローマの教会の
 生活と典礼について述べている。






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第3回のふりかえり

第3回のテキストを配布したすぐ後の日曜日の福音書は、マルコ1・9〜11(イエス、洗礼を受ける)でしたし、あの絵は有名な場面ですからすぐにおわかりになったことでしょう。

そして、4月2日の福音書、ヨハネ6・4〜15には、Q1.の答えみたいなことが出ていましたね。5つのパンと2匹の魚で、5000人を養った奇跡をまのあたりにしたガリラヤの人々は、イエス様を王にしようとしました。これはローマ帝国の支配から解放してくれる政治的なメシアとして、イエス様に期待していた、ということでしょう。

Q2.のイエス様の真の目的は、「神の国が近づいたことを知らせる」という役割でした。そのために癒しの業を行なったのですが、人々は奇跡を通して示されたしるしには気づかず、自分たちに利益をもたらしてくれる、強いリーダーシップを期待して、両者の間にはギャップが存在したのです。
私は先日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世についてのテレビ放送を見て、これと似たようなものを感じました。

ヨハネ・パウロ2世は、それまでの教皇とは違って、ユダヤ教、イスラム教などの他宗教との間に対話をしたり和解を進めて行く、非常に進歩的な面があるかと思えば、一方で、独裁政治の圧政に苦しむ南米などで、教会の指導者が、反政府活動に加わる「解放の神学」に対して、否定的であり、また、弱い女性の権利を認めることの象徴である人工妊娠中絶堕胎)の問題に対して、反対の立場に立っています。はたして、この人は弱い者の味方なのか敵なのか、いろいろ誤解されている人物です。

しかし教皇のことを、人々の期待とは違う行動をしたイエス様と比べてみると、何となく理解できてくるのです。キーワードは「命」です。

パンの奇跡の少し後、6章22節から「イエスは命のパン」という見出しの話が出てきます。そして39節では「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」と語られています。

また、マタイ26章52節では「剣を納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」とも言われました。

「解放の神学」で、弱い民衆のために銃を持って立ち上がることや、何の抵抗もできない胎児をなきものにすることは、決して「命」を大切にすることにはならないのです。

弱い民衆や、性的に弱い立場の女性のことを考えると、「解放の神学」や「人工妊娠中絶」に賛成したい気持ちになるのが人情ですが、それは「神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8・33)と、ペトロと一緒に叱られるのではないか、と思うのです。

Q3.は、弟子たちの共同体が、対立して二つのグループになったことです。ひとつは、12弟子を中心とした伝統的なユダヤ人の信仰で、彼らは「新しいイスラエルの構成員はユダヤ人に限られるべきである」と考えて、異邦人に、割礼を受けるべきだと考える人々です。もうひとつは、「割礼など受ける必要はない。異邦人はそのままクリスチャンとして新しいイスラエルの構成員になれる。」と考えていました。後者の代表であるステファノがユダヤ教徒によって処刑されると、そのグループは首都エルサレムから追放になるのですが、これによって、キリスト教は世界中に広がることになります。そして、その中でも大きな役割をしたのが、タルソス出身のサウロと呼ばれていたユダヤ教の教師だった人物です。彼はパウロというローマ市民としての名前で、地中海世界にキリスト教を広めました。

Q4.については、第3幕の最後の段落を引用していただきたかったのですが、私自身読みにくい日本語にしてしまい、また「ユダヤ教との調停」という風に訳してしまったことをお詫びしなければなりません。英語では「Jewish faith 」ですが、これは「ユダヤ教の信仰」ではなく、Q3.で問題となった「ユダヤの伝統を守っている信仰」とか「ヘブライ語を話すユダヤ人クリスチャンの信仰」という風に考えなければなりませんでした。

初代教会には多くの問題が起こっていました。ユダヤ教やローマ帝国によって、敵対したり、クリスチャンたちが迫害されたり、信仰内容や使徒としての権威の問題、そして、自由な考えの非ユダヤ教世界に対して、どのように伝統的なユダヤ人クリスチャンの信仰を順応させてゆくのか、という問題です。まあ、たくさんある手紙をこの短い文章でまとめるんですから、無理な話かもしれません。

さて、Q5.ですが、著者は、自らパトモス島の牢獄の囚人として生活していて、彼はクリスチャンの兄弟姉妹に、迫害に直面して、強く立ち向かうように、勧告しています。

ヨハネ黙示録には、ハルマゲドンとか666などの言葉が出てきて、最近では勝手に一人歩きしていますが、著者はこれらの象徴的な言葉などを使って、迫害に耐えて、希望にあふれた神様の勝利に確信を持つように、励ましの文書を書いたのです。

聖書を第2回と第3回で、駆け足で学びましたが、大掴みしていただけらいいと思います。

キリスト教は聖書が大切な第1の書物ですが、他にもたくさん学ぶものがあります。頑張りましょう。

2000年4月3日 チチェスターのリチャードの日 担当者 教育部長 司祭 小林史明



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