第8章 子なる神(受肉)
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
(ヨハネ1・14)

「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」 (ルカ1・41〜43)

「主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ」(使徒信経)

受肉という言葉は「インカナレ」というラテン語で、「肉体として表現する」あるいは「肉体として具現する」という意味から来ています。それは、イエス様がひとりの中に完全な人性と完全な神性とをともに備えていたこと、だから彼は真の人間であり、真の神様である、というわたしたちの信仰を語っているのです。さあ、どのようにして、わたしたちはこの結論に到達したのでしょうか。

イエス様は人間

このことについてはほとんど疑いを差し挟む余地はないでしょう。イエス様はひとりの女性から生まれ、人間に欠かせない、空腹、渇き、疲れを示されたことや、そして人間の感情である怒り、悲しみ、驚きを、聖書は記録しています。痛みを感じました。そしてすべての人間が死ぬように、彼は死んだのです。

彼の理解力には限界があったことがわかります。彼は自分には知らないことや、知ることができないことがあるのを認めています(マルコ13・32を見てください)。彼の理解力は、1世紀のユダヤ人の理解力なのです。

彼が偉大な権威をもって語ったことと他の人々にはできないことを行えたことは、彼の人間性を損なうことではありません。わたしたち不完全な者に休息が必要なように、真の人間であったイエス様は休息をとられたことを聖書は暗示しているのです。

ですから、ひとつ目の事実は、イエス様は真の人間であり、神様がすべての人間に対して願っているお手本だということです。

イエス様は神様

ふたつ目の事実は、イエス様は神様であるということです。

最初のクリスチャンたちは、この大胆な主張をすることを決して躊躇しませんでした。イエス様の中に、最初の弟子たちは、生きた神様との出会いを信じ、そして復活したイエス様と、顔と顔を合わせた時、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と叫びましたが、その復活したイエス様への称号は、その信仰を受け入れるために備えられたものなのです。

しかし、教会はこれを単純な信仰として見つけ出したわけではありませんでした。過去2000年にわたり、「イエス様は神様である」という大胆な主張に対して、それを希薄にする多くの試みがなされてきました。この主張は「キリスト教信仰のなかで、もっともけしからぬ主張である」と言われており、おそらくそうでしょう。「イエス様は真の人間であり、真の神様である。」と言うとき、論理的に矛盾しているように見えます。しかし、それは聖書と歴史を通じてのクリスチャンたちの経験による証言なのです。

事実を統合すること

これらのクリスチャンの経験によるふたつの事実を調和させる試みの中に、わたしたちの問題が横たわっています。それは世界地図を平面に描こうとするのに似ています。地球は、球体ですから平面に正確に再現することはできません。しかし、利便性のために、地図は平面に描かなければなりません。ある地図帳には、ふたつの異なった世界地図があって、その問題に直面することになります。ひとつの地図には、ふたつの輪があって、ふたつの半球を表しています。もうひとつの地図は、長方形の中にあります(メルカトル図法)。それぞれは、全世界の地図なのですが、広さに関して、ほとんどすべての所で、お互いに矛盾しています。しかし、それらはどちらも必要で、そしてお互いを矯正するために一緒に用います。

わたしたちが受肉の教理に取り組む時も、同じ方法をとらなければなりません。わたしたちは、イエス様が人間であり、またイエス様は神様であると言うのです。ふたつの声明は、お互いに矛盾します。しかし、それぞれは必要であり、一緒にして考えます。それらは、イエス様の基本的な事実を断言します。人間であるイエス様の中に、わたしたちは神様の人格を見出すのです。

奇跡的な誕生

「主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ」(使徒信経)

使徒信経は、イエス様の誕生についてふたつのことを語っています。彼は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれました。それらのふたつの声明は何を意味しているのでしょうか。

イエス様が聖霊によって宿った、という時、それはイエス様には人間としての父親がいないことを意味します。なぜなら、彼は新しい創造の始まりだからです。イエス様は新しいアダムであって、それは人間の生活における神様の新しい主導権を意味するのです。そのことは、セックスが罪である、だからイエス様の誕生からそれを排除しなければならなかった、という意味ではありません。そんな考えは異教徒の考えであって、キリスト教の考えではありません。聖書の中には、セックスそれ自体を罪であると示唆するものはありません。

使徒信経は、イエス様が「おとめマリヤから生まれ」た、と続きます。

おとめマリアの物語は、文字どおりに扱われるべきではない、という人々がいます。彼らの考えは次のようなものです。聖マルコ、聖ヨハネ、また聖パウロは、処女出産については述べていません。他の宗教では、偉大な人の誕生について、似たような伝説があります。神様は自然の法則を破るようなことを常にするような方ではありません。ですから、処女出産の物語は、おそらく美しい伝説であって、それによって、イエス様の誕生の重要性の証言をしているのだろうと言います。

別の人々は、その物語をそんなに簡単に片付けるわけにはいかない、と考えます。聖マタイと聖ルカの福音書の聖書記事は、きわめて明快で、そして独自のものです。そして聖マルコ、聖ヨハネ、そして聖パウロの処女出産への沈黙は、処女出産の信仰が初代教会には普遍的に受け入れられていたことを証言しているのかもしれない、だから特別な注意をはらう必要がなかった、というのです。この主張を支持する聖マルコの福音書に興味ある言及があります。マルコ福音書6章3節に、イエス様は「マリアの息子」と呼ばれています。他の聖書の箇所や、同時代の文学の中では、人のことを、その母親の息子として明示した箇所はほかにはありません。その物語は、後の時代に通例出てくる異教徒の伝説とは全く類似性のないものです。どちらかと言えば、それらの伝説はキリスト教の物語を土台としたものですが。

イエス様の処女出産は、わたしたちにいくつかの問題を提供しています。もし物語が事実でないなら、ルカとマタイはどうして、彼らの福音書にそれを入れて、私たちを悩ませるのでしょうか。処女出産を支持する最高の論拠は、その話の事実を想定することよりも、その物語を説明することの困難さにあるのです。

Q1.「受肉」の教理に対する信仰が示していることは何ですか?

Q2.福音書の中で、イエス様が人間であることを示している「空腹」「渇き」「疲れ」は、どこに出てくるか、聖書の箇所を挙げてください。

Q3.キリストの神性を示す言葉として「わたしと父とは一つである」と言われたのは、聖書のどこでしょう?

Q4.イエス様が人間であり、また神様であるという矛盾しているようなことを理解するために、著者は何を使っていますか?

Q5.処女出産ではありませんが、両親の願いにもかかわらず、なかなか子どもがあたえられなかったけれど、やっと誕生した聖書の有名な人物を4人挙げてください。

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第7回のふりかえり

Q1.についてですが、第7回のテキストの冒頭で、「もし聖公会に特有の教えとか強調点があるとしたら、イエス様の人格と働きを基本的な重要性として主張していることです。」と書いています。これは本当は聖公会に限ったことではないのですが、第7回から第10回まで、イエス様のことについて集中的に学ぶことになるので、著者は、こう書いたのでしょう。クリスチャンにとっての最大の関心は、イエス様の人格とその生き方、働きに集中します。なぜなら、イエス様こそが、私たちが神様のもとへ向かうための唯一の道だからです。

Q2.神の民であるユダヤ人たちは「救い主」(メシア)のイメージとして、旧約聖書に出てくる英雄を心に描いていました。先ず、エジプトの奴隷生活から導き出した民族の英雄モーセです。モーセはシナイ山で神様から十戒を授かり、契約を結びました。来るべき新しいモーセは、神様との契約を新しくしてくれる、宗教的指導者であることが先ず第1でしょう。

そして、先祖は約束の地で周辺の国々にまさる王国を築きましたが、それは元は羊飼いであったベツレヘム出身のダビデです。イエス様がナザレで生まれないで、人口調査という理由でダビデの町ベツレヘムで誕生するのもこのような背景があります。新しいダビデに、政治的な指導者を期待していた人々も多かったでしょう。ローマ帝国など周囲の強い国に支配されているユダヤの国を敵から救って、忠実さと正義で民を支配するのです。

しかし、ユダヤ人たちは、モーセやダビデだけでなく、預言者たちの言葉を心に描きました。救い主は死ぬべき普通の人間ではなく、世を裁くために神様から遣わされて来る方であると信じていました。クリスマスイブなどに読まれるイザヤ書9章5〜6節、11章1〜10節などは、ダビデと関連がありそうに思えますが、「モーセ」や「ダビデ」を超えた存在として描かれているように思います。

Q3.イエス様を「神の子」と言う時、それはイエス様の中に、わたしたちと会い、わたしたちを救う創造者である神様が存在しているということ、イエス様の中に、わたしたちは神様の働きを見、また経験するということです。

Q4.「主」という言葉には、ラテン語とヘブライ語の背景があります。ラテン語では主は「ドミヌス」ですが、それには「奴隷を所有する者」という意味があるので、「イエス様は私を所有しておられる」ということです。そして、ヘブライ語の方は、別に複雑な事情があります。神様には「ヤーウェ」あるいは「エホバ」と発音するのかもしれませんが、固有の名前がありました。ところが神様の名をみだりに唱えてはならない、という掟があるので、聖なる名YHWH(もちろんヘブライ文字で書くのですが)を読む時は、わざと「アドナイ(主)」と読み替えていました。ですから、ユダヤ人が「主イエス」と言うのは「神であるイエス」ということになり、神様はただひとりと考えるユダヤ教徒にとっては、神を冒?したことになるんでしょうね。

Q5.これはQ4.とも関係があります。ユダヤ人の場合は「主」と言えば創造者である神のことですが、皇帝礼拝をするローマ帝国市民には「皇帝は主である」ということになります。ラテン語を使っていた彼らには「皇帝こそが自分たちの所有者」ということでしょう。ところが、クリスチャンにとっては「イエス様だけが主である」ということになります(もちろん天地を創造した神様も礼拝していましたけど)から、皇帝をそれと同等の位置に置くことは、偶像崇拝に他ならないのです。彼らは皇帝を崇拝して罪を犯すより、虐待、投獄、殉教の道を選んだということでしょう。

以上、前回のふりかえりを書いてみました。 少し紙面に余裕があるので、ちょっとおまけの話をします。

みなさんは、「十戒」の映画などで、エジプトを脱出する時、モーセたちが過越の食事をしている場面を覚えておられるでしょうか。子どもがモーセに、その日の食事がいつもと違うこと、そしてそれにはどんな意味があるのか、など質問します。それは出エジプト記12章などからの影響だと思われますが、ユダヤ人は、過越祭の中で、エジプト脱出だけでなく、ユダヤ教の信仰をいろんなお話や歌を通して教えてゆきます。

神様がただひとりであることから始まる、過越祭の数え歌があります。

過越祭の数え歌

「だれが1を知っているの。私が1について知っている。1は天と地にいます私たちの神のこと。」

このあと13まで続いて、おさらいが加わるのですが、重複を避けて、数字だけを示します。
1=天と地にいます私たちの神
2=契約の2枚の板
3=イスラエルの族長たち
4=イスラエルの母たち
5=トーラーの5巻
6=ミシュナの編
7=1週の日数
8=割礼までの日数
9=妊娠の月数
10=掟
11=ヨセフが見た星
12=イスラエルの部族
13=神の属性
(「過越祭のハガダー」より)

この数え歌は、15〜6世紀頃にできたものらしいのですが、何となくわかる気がしますね。

(各数字について解説すると、)

1は、もちろん唯一の神様。2は、モーセの授かった十戒の書かれた2枚の板ですね。3は、族長であるアブラハム、イサク、ヤコブということになりますが、4はどうでしょう。
ヤコブには12人の息子がいて、それがイスラエル(ヤコブ)12部族を形成しているわけですから、その母ということになるでしょう。創世記35・23〜26を見ると、「レア」と「ラケル」という姉妹が共にヤコブの妻であり、子どもを産んでいることに加えて、ラケルの召し使い「ビルハ」とレアの召し使い「ジルパ」もそれぞれヤコブの子どもを産んでいるので、その4人が母なのではないでしょうか。5のトーラーは、「モーセ五書」と呼ばれる旧約の最初の「創世記〜申命記」のことです。6のミシュナは2世紀頃にまとめられたユダヤ法の基本になるもので「種子」「祭日」「婦人」「損額」「聖物」「清浄」の6巻からなっているようです。7〜12は説明の必要がないでしょう。11については創世記37・9を見てください。13に関しては、12世紀のラビ、マイモニデスが13の信仰箇条を作っているのでそのことを指すのではないか、と私は思います。それは、「創造者としての神」「神の独一性」「神は無形であること」「神の永遠性」「神のみを拝すること」「預言者の言葉の真実性」「モーセは最大の預言者である」「神はモーセにトーラーを授けた」「トーラーの不変性」「神は全能であること」「神による応報」「メシアの来臨」「死者の蘇り」

余白があったので、ユダヤ教の世界を少し紹介しました。アメリカの民主党副大統領候補もユダヤ教なので、知っておいてもいいでしょう。

2000年8月9日
担当者 教育部長 司祭 小林史明



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