第9章 子なる神(贖い)
「もしイエス・キリストが今日やってきたなら、人々は彼を十字架にはつけはしないだろう。人々はイエスに夕食を出して、彼が何を言わなければならなかったのかを聞いて、楽しく過ごすだろう。」 (トーマス・カーライル)

「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに降り」(使徒信経)

" atonement "(贖い) という単語は、at-one-ment というふうに分解できます。それは遠ざかった者たちを一緒にする、という意味です。贖いの教理は、神様がイエス様によって、世界を神様と和解させたというキリスト信仰を表現しています。イエス様の生と死と復活によって、神様はわたしたちをご自身と" at-one "(ひとつに)されたのです。しかし、それにはどんな意味があるのでしょうか。

贖いを理解するためには、わたしたち自身のことから始めなければなりません。神様を拒絶した男や女たちは、自分自身を喜ばすことを選びました。聖書の言葉で言えば、わたしたちは罪を犯しているのです。


わたしたちの世界が何か間違っているということを知るには、毎日の新聞を見るだけで十分でしょう。ある難民キャンプで虐殺がありました。若い母親が彼女の赤ちゃんを殺しました。12歳の「テロリスト」は、逮捕した者によって殴り殺されました。ある堕落した政治家が摘発されました。また、アフリカのどこかで10万人が飢餓のため死んでいます。これらすべての背後には、この星を2回破壊できるほどの多くの国家による破壊の狂気な競争があります。何かが明らかに間違っています。

間違っているのは、私たちが罪を犯しているからです。わたしたちは神様から分かれてしまい、お互いも分かれて、そしてわたしたち自身の真の本質からも分かれているのです。わたしたちは罪を犯しています。

罪とは、ただ「いたずらをする」とか、「悪いことをする」といったようなことではありません。わたしたちのあるがままの本質を苦しめる病気です。聖パウロはこの兆候を表現して「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ローマ7・19)と書いています。

しかし、それに対してわたしたちに何ができるでしょう。わたしたちには何もできないように思えます。わたしたちは、お互いの関係を切り、真の自分自身からも切り離し、また神様から、わたしたちの存在の源、目的からも切り離して来ているのです。そしてこれはわたしたちの深い屈辱なのですが、和解を成し遂げるために、自分では何もできないのです。ただ、神様だけがそれをできるのです。そしてそれが、イエス様の生と死と復活の中で神様のなさったことなのです。

このことで、わたしたちは信仰のもっとも基本的な問いのひとつに、直面させられるのです。もし神様が良い方で、率直で恵みにあふれた方であるなら、何故イエス様は死ななければならなかったのでしょうか。何故イエス様は「神様はあなたを愛しておられて、あなたを赦しておられるんですよ」というメッセージを語るだけでは済まなかったのでしょうか。どうして死ななければならなかったのでしょう。

何故イエス様は死なねばならなかったのでしょう?

この問いに対して、いくつもの伝統的な答えがなされています。

そのひとつは、この世が、神様と悪魔の宇宙的な戦いの場であった、としています。そこで、わたしたちの罪のために、男も女も悪魔の奴隷になっていました。そして、わたしたちを解放するために、イエス様の血が、身代金として悪魔に払われた、というのです。

この説は、今でも多くの教派に広まっていますが、神様の位格を考えると、それは"答え"以上に"問題"を導き出します。神様は本当に他の似たような力のものと戦うのでしょうか。神様は悪魔に身代金を払わなければならない状況にあるのでしょうか。もしそうなら、もはやそれは聖書にある、唯一の全能なる神様ではありません。

もう一つの説は、1033年から1109年まで生きた中世の神学者アンセルムスによるものです。アンセルムスは、犯罪は罰せられなければならない、という原則から始めます。それによると、神様は、わたしたちを赦す前に、正義の要求を満足させなければならない、というのです。わたしたちの罪はあまりにも重くて、要求される罰金は到底払えない、と彼は論じます。神様だけがそれを払えるのです。だから神様は、わたしたちのために、イエス様によって、刑罰を受けられた、というわけです。

しかし、神様は本当にそのような原則に縛られているのでしょうか。そして正義は、罰金に対して汚れのない犠牲を払うことで犯罪者を自由にできるのでしょうか。

しかし、もう一つの説がアンセルムスとほぼ同時代のアベラルドゥス(1070年〜1142年)という名の人によってできました。アベラルドゥスの十字架の視点は、比較的単純なものです。それはわたしたちへの神様の愛の畏敬に満ちた、劇的な表明である、と彼は言うのです。畏敬に満ちた、劇的なそれは、わたしたちに衝撃を与えて後悔へと向かわせます。そうすることでわたしたちは赦されて、神様と和解できるというのです。しかし、それでは十字架は何をすることができたのでしょうか。私たちの救いは、わたしたちが衝撃をうけるかどうかにかかっているのでしょうか。

これらの伝統的な説は、どれもわたしたちの基本的な疑問に満足のいく答えを与えてくれません。おそらく、答えは、説のなかにあるのではなく、新約聖書のメッセージの中にあるのでしょう。

「十字架は、暴力の象徴だが、しかし、平和への鍵である。犠牲の象徴であるが、しかし、癒しへの鍵である。死の象徴だが、しかし生命への鍵である。」(デービッド・ワトソン)

不在と存在

新約聖書の著者たちは、わたしたちのキリスト教理解のために、十字架の重要性を強調するたくさんの異なった象徴を使います。彼らはヘブライ人の宗教の言葉、裁判所の用語、奴隷制度の言葉を用いるなど、様々な事によっています。しかし、彼らは誰もみな、聖パウロが、イエス様の生と死と復活の根源の意味は、「神はキリストによって世を御自分と和解させ」(Uコリント5・19)た、ということに同意するでしょう。

あなたは、罪が神様から離れることであり、罪の治療は、わたしたちの神様との和解であることを思い出すでしょう。罪は、わたしたちの生活やわたしたちの世界から神様が不在になることです。和解は、わたしたちの生活やわたしたちの世界に神様が存在することの結果なのです。

イエス様は、神の国が近くに、本当に始まっていることを宣言するために来られました。彼はその教えと行動を通して、罪と悪魔を超える神様の力を表明されました。彼が存在することによって、人々は自分たちの罪と直面しました。彼の存在によって、人々は赦され、回復したのです。

イエス様が言ったり、行ったりしたすべてのことで、人々は神様の存在と直面し、そのような方法でイエス様と親しくなることにより、神様が彼らの生活の中に存在するという信仰へと導かれてゆくです。しかし、それ以上のことがあります。

男も女も常に死の幽霊、最終的不条理、すべての意味の最終的不在によって、常に悩まされています。しかし、イエス様は、死ぬことと死に打ち勝つことで、闇の領域にさえ、神様の存在を知らしめました。

さあ、もしこれが福音でないならば、わたしたちの信仰の基礎はなになのでしょう。もう一度、聖パウロの言葉を引用してみましょう。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたいたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。……しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8・31〜39)

イエス様が死んだので、わたしたちは生きるのも死ぬのも本当に神様とひとつなのです。どんな被造物も、それこそ死さえも、神様の存在からわたしたちを引き離すことのできるものはないのです。

「自由な、責任ある人間として苦しみを受け入れることより、人間の命令に服従することで苦しむことの方がはるかにたやすい。ひとりで苦しむことより、他者と共に苦しむ方が、はるかにたやすい。個人的な不名誉で苦しむより、社会の英雄として苦しむ方が、はるかにたやすい。霊的苦しみに耐えることより、物理的死に苦しむ方が、はるかにたやすい。キリストは自由な人間としてひとりで、個人的な不名誉で、肉体的にも霊的にも、苦しんだ。そしてその日からクリスチャンたちは彼と共に苦しんでいる。」(ディートリッヒ・ボンヘッファー)

Q1.著者は「贖い」という言葉の意味を、英語の単語を使ってどのように説明していますか?

Q2.私たちの罪とはどんなものだと、著者は説明していますか?

Q3.イエス様が十字架にかかって死ななければならなかった理由について、伝統的な3つの説を挙げていますが、簡単に説明してください。

Q4.イエス様は、その教えと行動で私たちに何を知らせたのですか?

Q5.私たちの世界に、神様が共に存在しておられることを忘れないために、日頃私たちは何をしていますか? 答えはテキストにはないので、あなたの考えを書いてください。

### ### ### ### ### ### ### ###

第8回のふりかえり

前回の設問は、何となくクイズみたいになりましたが、皆さんどうでしたでしょうか。聖書を開いて調べた人もいたのでは?

Q1.についてですが、「受肉」のことをラテン語では「インカナレ」英語では「インカーネーション」と言います。花の「カーネーション」は、元々はピンク色だったのでしょう。肉を指す言葉ですね。神の御子が人間の姿になり、ベツレヘムの馬小屋(聖書には馬小屋とは書かれていませんが、テキストの絵はそうですね)で生まれたことを考えてほしいのです。イエス様の中には、完全な人性と完全な神性が備わっていました。神様が人間を救うためには、真の神様が真の人間になって、完全に相手の立場に立てる方である必要があったのです。イエス様が神であるというのは、ユダヤ人には到底受け入れられないことでしたが、弟子たちをそれをはっきりと告白しています。

Q2.「空腹」については、荒れ野で40日断食した後(マタイ4・2、ルカ4・2)と、都エルサレムへ行く途中、空腹なのにいちじくの木に実がついていないので呪うところ(マタイ21・18、マルコ11・12)です。

「渇き」については、十字架につけられて亡くなる直前の言葉「渇く」(ヨハネ19・28)です。

そして「疲れ」は、サマリアの女と出会うヤコブの井戸のところ(ヨハネ4・6)です。

Q3.については、そのとおり言っているのは、ヨハネ10・30です。この言葉がユダヤ人の気持ちを損ねて、「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒?したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」と今にも殺すような勢いで議論しています。もっともここではイエス様は「神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている」と反論していますが、論争の中で、イエス様は、神様のことを「父」と呼んでいることで、自分が神の子であることを言いつづけるわけですから、自分が神であることを宣言しているようなもの、と受け取られてしまいます。

「THE FIVE GOSPELS 」という、イエス様の言葉が歴史的に信憑性があるかどうか、学者が投票した本によると、これはイエス様が実際に言ったのではないようです。ヨハネによる福音書の著者の信仰告白と受け取るべきでしょう。

Q4.イエス様が人間であり、また神様であるという矛盾しているようなことを、地図を例にして説明しているのには驚きました。一つは皆さんもよくご存知の、長方形の中に世界が描かれている「メルカトル図法」によるものですね。アフリカよりロシアの方が広く見えるけど、実際は反対ですよね。ただ、この図は航海する時など等角航路が直線で引けるので、緯度の間隔を調整すると便利でよく使われたと習いました。一方、二つの輪がある地図。名前をご存知ですか。「ランベルト正積方位図法」と言うようです。方位や面積が正確なんですが、端はだいぶゆがみますね。地球という球体を平面で説明するのには、矛盾するような二つの地図の特徴を生かしてやるしかないのでしょう。

Q5.これについては、いろいろ探されたことでしょう。聖書の順番に挙げてゆくと、
@アブラハムとサラの子、イサク(創世記21章)
Aイサクとリベカの子、エサウとヤコブ(創世記25章21節)
Bヤコブとラケルの子、ヨセフ(創世記30章22節〜)
Cマノアとその妻(名前は記されていない)の子、サムソン(士師記13章)
Dエルカナとハンナの子、サムエル(サムエル記上1章)
Eザカリアとエリサベトの子、洗礼者ヨハネ(ルカ福音書1章)
私はこれくらいです。しかし、他に、列王記下4章には、預言者エリシャの奇跡物語が書かれています。そこに、9節から、子どものいない夫婦のところに行ったエリシャが、男の子の誕生を預言し、誕生した話。そしてその子が死んだのを生き返らせた話があります。 他にもあったら教えてください。

クイズ

第9回のテキストの表紙には十字架にかかったイエス様の絵がありますが、その両脇に、何か文字らしいものがあります。これは何を指すのか、いろんな方法を使って調べてみてください。

(ヒント)

よく十字架の上の罪状書きに「INRI」というラテン語の文字があって、あれは
「I」イエス  「N」ナザレ
「R」王(Rex) 「I」ユダヤ
「ナザレのイエス、ユダヤの王」という意味なんですが、今回のテキストは、ギリシャ語のようです。さて、その意味は?

2000年9月5日
担当者 教育部長 司祭 小林史明



アングリカン