第10章 子なる神(復活)
「復活がなければ、クリスチャンの活動は屈辱的な先細りになっていただろうし、キリスト教は存在していなかっただろう。使徒時代のキリスト教の現象は、復活を抜きにしては、科学的に考えられないと言っても過言ではないだろう。そして、復活がなければ、キリスト教はそれ自身存在しない。なぜなら、キリスト教の独自性は、昔の教師に対する忠実さではなく、時代を貫いて、すべての世代に『イエスは主である』という信仰だからである。」
(大主教マイケル・ラムゼー)

「三日目に死人のうちからよみがえり」(使徒信経)

復活の教理は、極めて単純です。クリスチャンは、イエス様が死からよみがえった、と信じています。

しばしば主張されることですが、イエス様の復活の最も納得させられる論拠は、教会の存在です。なぜなら、この教理は、教会の中で育った信仰ではなくて、むしろその信仰が、教会を成長させたからです。

イエス様の死後、弟子たちは失意の中、幻滅を感じていました。彼らは先生の「みなしご」(聖ヨハネの言い回し)でした。しかし、突然それが変わりました。彼らの主張によれば、イエス様は生きており、彼らの仲間が、よみがえった主を見て、話しかけたと言うのです。20年後に、聖パウロは次のように書いています。「キリストが死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二弟子に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」(Tコリント15・3〜5)。聖パウロが次のように語りかけていることは明らかです。「もしあなたが信じないのなら、『私自身が見た。』という人に尋ねてみてください。」と。

何が実際に起こったのか

新約聖書の中のどこにも、復活は実際どの様に起こったのか、描写する試みはなされていません。福音書や手紙の著者は、宣言することには関心がありましたが、説明することには関心がありませんでした。しかし、それらはいくつかの糸口を与えてくれて、そしてその糸口からわたしたちは二つの重要な事実を推定することができます。

第一に、墓は空っぽでした。

福音書は、第三日目の朝、どのようにして弟子たちが墓に行き、イエス様の体がなくなっていたか書いています。

物語は詳細に記述されていますが、イエス様が復活したことを証明するようには語られていません。事実、福音記者は、物語を軽視しがちであり、聖パウロにいたっては、全くそれに触れていません。彼らは、空の墓の事実から復活が起こったのだと悟ったのです。それはちょうどさなぎの殻が、蝶の誕生を示すように。彼らの関心は蝶であって、さなぎではないのです。

第二に、イエス様が生きていることを何人かが目撃しました。

マグダラのマリアは、復活した主を見ました。エマオへの途中の道で、ふたりの弟子たちは、復活した主を見ました。12弟子が一緒にいた時、彼らは、復活した主を見ました。ガリラヤ湖で、また彼らは、復活した主を見ました。

最初彼らはイエス様だと分かりませんでした。マリアは彼を園丁だと思っていました。エマオ途上の二人の弟子は、彼が一緒にパンを分かち合うまで、気づきませんでした。漁師たちは彼がもう一度網を投げるように促すまで気づきませんでした。

このことは、復活した主が、彼らの以前に経験したイエス様とは違っていることを示しているようです。聖パウロがこれらの出現について書く時、彼は特別な言葉「opthe」を使いました。これは、イエス様がご自分を弟子たちに表した時、彼はわたしたちの普通に経験する世界の秩序とは違う秩序に属していることを示しています。

そしてまた、わたしたちはイエス様の出現が、科学的な言葉で記述されているのではないということを覚えておく必要があります。新約聖書の著者たちは普通の人間の経験からは極めてかけ離れた出来事を記述しています。従って、彼らの言葉は、正しく理解しにくい、あいまいなものなのです。しかし、ひとつ確かなことがあります。復活された主を見たそれらの人々は、抗しがたい確信をもって、キリストが復活したことを知ったのです。

「タリーランドは、新しい宗教を始める方法について問われたことがあった。彼は『あなた自身が十字架にかかって、三日目に起き上がってみたらいい。』と答えた。復活のこの事実が、世界宗教であるキリスト教を開始させたのである。もし、キリスト教が単にイエスの道徳的教えを基礎にしたものであるだけなら、死海写本を私たちに残したクムランのエッセネ派のようなユダヤ教の教派として、一時的に残っただけだっただろう。ローマ帝国を吹き抜けて、世界各地の全ての民族の人々に忠誠を誓わせるような、生活を変えさせる運動にはならなかっただろう。」
(ウィリアム・ニ−ル)

復活の意味

歴史はむき出しの事実だけによって成立しません。大切なのはそのような事実の持つ意味です。

復活の事実を記述する上で、たとえ最初の証人たちが、とらえにくい言葉を使わなければならなくても、復活の意味を宣言する時、彼らは、まったく躊躇しませんでした。突然に、他の全てのものが、イエス様の死さえも、意味のあることとして理解できたのです。

彼らは、イエス様の働きが、失敗でないことが分かりました。神様はイエス様の言動にすべて同意の印章を押されました。彼らは、イエス様が誰であるのか、ということ、つまり彼は約束された主でありキリストであって、神様の秩序の新しい時代の案内者なのだと、分かったのです。彼らは、自分たち自身、その新しい時代に参加できることが分かりました。そこでは、神様は、キリストによって人間性の再創造をされていて、彼らはその再創造の最初の収穫の実だったのです。しかし、とりわけ、キリストのうちに神様が存在しておられることは、彼らから取り上げられるものではないことを知ったのです。

昇天

「天に昇られました。そして全能の父である神の右に座しておられます。」(使徒信経)

復活と昇天を二つの別の出来事と考えてはいけません。また、昇天を「上に昇ること」と考えるのも正しくありません。聖ヨハネや聖パウロは、そのようには考えていません。彼らには復活したキリストは昇天したキリストでもあって、もっと正確に言うと、高められたキリストです。弟子たちに現れたキリストは、すでに「全能の父である神の右に座しておられま」した。聖ルカだけが、イエス様は、父なる神様と共にいるために天に上げられるまえに、40日過ごしたことを示唆しています。

この示唆は、不幸なことに復活と昇天の両方についてたくさんの誤解を招いてきました。その誤解によると、復活したキリストは、神様と共に過ごすために天に引き上げられるまで、何とかして隠れて40日過ごし、時たま信仰を強めるために、彼の選んだ弟子たちにご自身を表すため、危険を冒して現れたというのです。でも実際に聖ルカが言っているのは、そんなこととは全く違ったことなのです。

聖ルカは、彼の名前をつけた福音書と使徒言行録の両方の著者です。彼がそれを書くことになった、彼の目的は、「順序正しく」(ルカ参照)イエス様の生涯と死、そして復活を、それに教会の始まりを書くことでした。彼の示唆は、昇天が復活の40日後であることであって、復活されたキリストについてのわたしたちの理解に何かを加えようという意図は全くありませんでした。しかしながら、その文章は、キリストの出演の終わりを告げて、それによって、ルカの「順序正し」い次の章の舞台、聖霊の到来を明らかにするのです。

「キリストの昇天は、時間や空間の全ての制限から彼が解放されたことである。地球からどこかへ移ることではなく、常に地球のどこにでも存在することである。」
(大主教ウィリアム・テンプル)

昇天の意味

たとえ復活と昇天が、二つの出来事として区別できないとしても、その意味ははっきり識別しなければなりません。

復活の教理は、キリストは復活している、と断言しています。昇天の教理は、まったく違ったことを宣言しています。それは、キリストが今やすべての創造において、神様と役割を共有しているということです。

「全能の父である神の右に座しておられます」というのは、場所のことではなく、弟子たちの信仰を意味しているのです。すなわち、イエス様は正当な栄光へと高められて、そして栄光のうちに生きている人と死んだ人を裁くために来られる、ということです。

Q1.「イエス様の復活の最も納得させられる論拠は、教会の存在です。」と著者は言いますが、どうしてですか? 

Q2.復活したイエス様に出会った弟子たちが共通して、すぐにはそれがイエス様であると気づかなかったのはなぜでしょうか?

Q3.弟子たちは、「復活の意味」をどのようにとらえたのでしょうか?

Q4.復活と昇天を別の出来事と考えた人々に、どんな誤解が生じましたか?

Q5.「キリストの昇天」というのは、どういう意味でしょうか?

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第9回のふりかえり

Q1.英語で贖いを意味する" atonement "という単語は、at-one-ment というふうに分解できて、それは、遠ざかった者たちを一緒にする、という意味です。神様がイエス様によって、断絶していた世界を神様と和解させたというキリスト教信仰を表現しています。 次に紹介する絵は、この贖いについて、私が中学生の時に読んだ本に出てきたものです。

イエス様が地球と神様のいる天国との橋になったので、それを渡ってわたしたちはみんな神様の所へ行けるようになった、という説明です。

Q2.わたしたちが神様から分かれていること、またわたしたちお互いも分かれて、そしてわたしたち自身の真の本質からも分かれていることが罪です。それはわたしたちのあるがままの本質を苦しめる病気であって、聖パウロはこれを「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ローマ7・19)と書いていて、わたしたちにはそんな自分を神様と和解させることができないのです。神様の側からの和解の手段として、イエス様の生と死と復活がある、とわたしたちは理解しています。

Q3.イエス様が死なねばならなかった理由のことを「贖罪論」とか「和解論」とか言っています。テキストで最初に紹介されたものは、「賠償説」と呼ばれています。人類が罪のために悪魔の奴隷になっているのを、解放するために、神様はイエス様の血を流して、それを身代金として悪魔に払った、というものです。

これには「神様は悪魔に身代金を払わなければならないほど弱いのか」という疑問が出てきます。唯一の全能なる神と言えるのだろうか、と。

2番目のものは、「刑罰説」と呼ばれています。神様に対抗するような悪魔はもうここには出てきません。この説を主張したカンタベリーの大主教アンセルムスは、犯罪は罰せられなければならない、という原則から始めます。神様は正義の方だから、罪を犯した人類は、その刑罰を受けて、罰金を払わなければ赦してもらえない。しかし、人類には、その罪のための罰金は到底払えないから、神様が代わりに自分の息子のイエス様を十字架にかけることで、刑罰を受けて罰金が支払えたということ。

でも、神様はそんな原則に縛られているのか、そしてこのことで犯罪者は自由になれるのか、疑問がやはり残ります。

3番目のものは、「道徳説」と言われています。十字架は神様のわたしたちに対する愛の表明であって、これを見ることで、わたしたちは後悔して回心することで、赦される、ということで、アベラルドゥスという人が唱えた説です。

しかし、これでは、赦されるか(和解できるか)どうかということは、神様の側の問題と同様に、いやそれ以上に人間の側の主体性に関わっていて、神様の救いの業が不完全なものであることになってしまいます。

そして著者は、これらのどの説よりも、答えは、新約聖書のメッセージの中にあると、言っています。「神はキリストによって世をご自分と和解させ」(Uコリント5・19)た、というパウロの証言のことです。

Q4.イエス様は、その教えと行動を通して、罪と悪魔を超える神様の力を表明されたのです。このことによって、神様が人類の生活の中に存在するという信仰へと導かれるためでした。それによって、和解を確信してほしいからです。

Q5.礼拝をささげ、特に御言葉を味わい、聖餐に与かることが大切なのだろうと私は思います。

ふりかえりの最後に出した、前回の表紙の文字についてのクイズはいかがでしたか。「ギリシャ語のようです。」と書いたら、「そんな言葉まで調べさせるのか」という感想を聞きました。しかし、キリスト教美術の本や、インターネットで外国のホームページまで紹介してくださる方もありました。1枚絵を紹介します。

表紙の絵に掛かれていた文字の配置とは違いますが、こちらの方が一般的なようです。IとC、XとCは、それぞれ単語の最初と最後の文字を表わします。上にある記号を間の文字が省略されていることを示しています。

IC=ΙΗΣΥΣ(JESUS)
XC=ΧΡΙΣΤΟΣ(CHRIST)
NIKA(VICTOR)

(*CとΣは、ギリシャ語でSを表わす時に使う、同じ文字シグマ)「勝利者イエス=キリスト」ということです。罪を滅ぼした勝利の印としての十字架ですね。

2000年10月4日
担当者 教育部長 司祭 小林史明



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