第11章 聖霊なる神
ある人々は、新約聖書について次のような示唆を書いている。「『使徒言行録』は、むしろ『聖霊言行録』と名づけた方がいい。それは、約束された聖霊の到来と初代教会の生活での聖霊の働きの証言を伝える書物である。」

「聖霊を信じます。」(使徒信経)

信仰の教えや信経を、わたしたちは間違った所から始めている、と指摘されています。わたしたちは全能の父である神から展開するように始めます。そして子なる神がそれに続きます。彼については、本当にたくさんのことが語られています。しかし、聖霊なる神になると、わたしたちの言葉は先細りになるように思えます。

でも新約聖書を読んでみると、神様に対しては、それとは正反対の近づき方をしています。わたしたちは父なる神をただ子を通して、そして子なる神をただ聖霊を通して知るのだ、ということがわかってきます。

ほとんどのクリスチャンはそれを経験して知ります。わたしたちのほとんどは、ほかの人々の中にある聖霊の命によって、生きた信仰へと導かれていきます。ですから、わたしたちはイエス様を違った光の中で、見ることができるのです。そして最後に、ふつうそれはずっと後になってですが、親である神の愛を知り、経験するようになるのです。

神様への窓

聖霊は窓であって、それを通してわたしたちは神様を見るのです。神様はご自分の存在を示すために特別な人々に聖霊による力を注いで、彼らが「窓」になり、それを通して神様の計画が見えるようにしたのだ、とヘブライ人たちは信じていました。この方法で神様の霊がヨセフ(創世記41・38以下)、ヨシュア(民数記27・18)、そしてサムソン(士師記14・6以下)に注がれたのです。そしてまた、この方法で、「預言者たちを通して語られました。」

新約聖書の中で、神様の霊はマリア(ルカ1・35)や、シメオン(ルカ2・25)に与えられました。そして、彼らは神様の計画の「窓」になったのです。イエス様ご自身、洗礼の時に聖霊によって聖別されたのです(ルカ3・22)。霊によって荒れ野に導かれ、また彼は「霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」(ルカ4・14)のです。故郷であるナザレで、会堂に行き、聖書を朗読するように導かれました。彼はイザヤ書61章の言葉を選びました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と言いました(ルカ4・14以下)。イエス様は神様の霊によって聖別されたので、彼は「窓」になり、彼を通して人々は神様が見えるのです。

パラクレートス

聖ヨハネは窓のことは語りませんでした。彼はほかのイメージを使いました。彼は聖霊を「パラクレートス」と呼びました。わたしたちの聖書では「弁護者」(英語では「Counsellor」「Helper」と訳しています。

ギリシャ語の「パラクレートス」の意味は、「援助を与えるために呼ばれた者」ということです。毎日ギリシャでは、パラクレートスは、一族や家族の頭として、彼らを守るためにその人たちによって立てられ、結び付けられます。そして彼らを支えるのです。イエス様はその生涯の間、弟子たちのパラクレートスでしたが、彼の十字架刑が近づくと、彼は弟子たちに他のパラクレートスが必要であると悟りました。彼は弟子たちに確約しました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14・16)と。

イエス様が言ったこの「弁護者」(パラクレートス)は、弟子たちを教え、彼が教えた全ての人々を呼び戻すために、弟子たちを助けるのです。この弁護者は、イエス様を通して父から送られ(ヨハネ15・26)、イエス様が行ってしまうまでは来ません(ヨハネ16・5〜11)。そして、弟子たちをすべての真理へと究極的に導くのです(ヨハネ16・12〜15)。この約束への期待の中で、弟子たちはペンテコステの日に聖霊の到来を待っていたのです。

「すべての神聖な働きは父なる神から始まり、子なる神を通して進み、聖霊なる神によって完成する。」(バジル330〜379)

聖霊と教会

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2・1〜4)。

また、使徒言行録の10章では、ペトロは聖霊に導かれて、カエサリアの異邦人の会衆に説教するために出かけました。ペトロが説教している間に「御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。」(使徒10・44〜46)

わたしたちはこのことを記憶しておかなければなりません。すなわち、聖霊が与えられるこれらの二つの場合、個々に与えられるのではなく、すべての会衆に与えられたということです。そしてもうひとつ記憶しておかなければならないことは、この聖霊の集団的な注ぎは、2回だけ起こりました。第1は、ユダヤ人の弟子たちにペンテコステの日に起こりました。そして2回目は異邦人の会衆に対してカイサリアで起こったということです。その時から、聖霊は、新しい改心者にだけ、洗礼を受けて手が置かれて彼らが教会に加わる時だけ、与えられるようになったのです。

新約聖書のメッセージは、明らかです。聖霊は教会の所有物であり、教会は聖霊の所有物なのです。聖霊は教会の生命の源です。

聖霊は教会を真理へと導き、教会に奉仕職の賜物を与えます。これらの賜物は教会の上に、教会の中に、そして教会の奉仕職のために授けられることが強調されます。それらは決して個人の利益や利己心の誇示のためには与えられません。それらは奉仕職のための賜物です。

聖霊の賜物

教会に与えられる聖霊の賜物は多く、種々あります。

聖パウロは、それらが、知恵、知識、信仰、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力、使徒、教師、援助する者、管理する者、(Tコリント12・8〜10)、奉仕する者、勧めをする者、施しをする者、慈善を行う者、指導する者(ローマ12・6〜8)、福音宣教者、牧者、(エフェソ4・11)などを含んでいて、しかも、このリストは、目立つものを少し集めたに過ぎないと言います。

賜物は聖霊の共同体である教会に与えられて、教会はそのメンバーにそれらの賜物が与えられていることを確認します。すべてのクリスチャンは少なくとも一つ、礼拝と奉仕職に賜物を持っています。そしてすべてのクリスチャンは神様に対する礼拝にその賜物を使う責任を持っています。

Q1.テキストの最初のところで、著者は「教えや信経を間違った所から始めている」と書いていますが、どういう意味でしょうか?

Q2.「聖霊が神様への窓である」と言いますが、具体的にはどういうこととの関係でそのように言うのでしょうか?

Q3.「イエス様は・・・、弟子たちのパラクレートスでした。」とは、どういう意味でしょうか?

Q4.聖霊の集団的な注ぎが2回起こった後は、どのように与えられているのでしょうか? そしてその目的は何だと著者は言っていますか?

Q5.あなたには、どんな聖霊の賜物があると思いますか? 

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第10回のふりかえり

Q1.「イエス様の復活の最も納得させられる論拠は、教会の存在です。」という言葉に続いて、「なぜなら、この教理は、教会の中で育った信仰ではなく、むしろその信仰が、教会を成長させたからです。」と書かれています。イエス様の復活という原因があって、教会という結果が生じた、ということでしょう。

ユダヤ人たちを恐れるあまり、イエス様を見捨てて逃げ去った弱虫の弟子たちが、急に「イエスはキリスト(救い主)である。」と大胆に信仰を告白する強い使徒に変貌して教会を建てたのは、復活のイエス様に出会った強烈な促しによったとしか私たちには考えられない、ということを、テキストの著者は言いたいのでしょう。

パウロは、Tコリント15章の「死者の復活」というところで、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」と書いています。

イースターの説教をする時、イエス様の復活についてどうしても話さなければなりません。「もし、イエス様が惨めな十字架の死で終わっていたなら、たとえ素晴らしい教えを弟子たちに残していても、その印象は、時間が過ぎるにつれてうすれて、やがては忘れられたに違いないでしょう。ところが、弟子たちがこの世を去ったあとも、教会はますます発展していった、ということは、弟子たちを元気にさせる何かが起こったに違いない。それが『復活』なのだ」と話したことがあります。

Q2.「このことは、復活した主が、彼らの以前に経験したイエス様とは違っていることを示しているようです。」と著者は言います。

そして、Tコリント15章5〜8節でパウロは、復活したイエス様が「現れ」ました、と何度も書いていますが、これは「opthe」という特別な言葉です。文法的には、「見る」「会う」を意味する「horaoo」という動詞の受動態の過去ですが、これは、主イエス変容の日に、モーセとエリヤが「現れ」た時とか、洗礼者ヨハネの父ザカリアが香をたいている間に、主の天使が「現れ」た時などに使われている表現です。

ですから、復活したイエス様がご自身を弟子たちに現わした時、彼はわたしたちの普通に経験する世界の秩序とは違う秩序に属していることを示している、と言うのです。

そしてその次の段落では、新約聖書の著者たちは、イエス様の出現を、科学的な言葉ではなく、普通の人間の経験からは極めてかけはなれた出来事として記述している、と言うわけです。

Q3.これについては、「復活の意味」の最後の段落にまとめて書かれています。

彼らには、十字架で死んだイエス様の働きが、失敗でないことがわかったことでしょう。神様はイエス様の言動にすべて同意され、イエス様こそ約束された主でありキリストであって、神様の秩序の新しい時代の案内者なのだ、とわかりました。そして、自分たち自身、その新しい時代に参加できる、ということもわかりました。

でも何より大切なことは、キリストのうちに神様が存在しておられることは、彼らから取り上げられるものではない、つまり「神様がともにいてくださる(インマヌエル)」ということでしょう。

Q4.昇天を「上に昇ること」とは、聖ヨハネや聖パウロは考えていません。「復活したキリストは、神様と共に過ごすために天に引き上げられるまで、何とかして隠れて40日過ごし、時たま信仰を強めるために、彼の選んだ弟子たちにご自身を現わすため、危険を冒して現れた」というふうに、復活ではまだ不完全であって、昇天によって完成する、みたいな考えは、誤解である、と著者は言います。

聖ヨハネは、福音書20章のマグダラのマリアにイエス様が現れた時の言葉を書き残していますが、これが誤解の原因ではないか、と私は思っています。17節のイエス様の言葉は、現在の訳では「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」となっています。

ところが、以前の口語訳では「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。」となっています。復活しただけの体はまだ不十分で、昇天によって、完成する。だからそれまでは、触れられては困るので、隠れていた、という風にうけとられたのではないでしょうか。外国の注解書にも似たような受け取られ方をする危険が指摘されていました。

しかし、実際に聖ヨハネが言いたかったのは、イエス様の体のことではなく、マグダラのマリアが喜びのあまり、そのまますがりついて、自分本位で甘えの信仰に陥りそうなことへの警告だろう、といわれています。ちょうど変容の山で、3人の弟子たちが、イエス様とモーセ、エリヤの三人のために家を建てて、ずっとそこにいたいと、甘えたことを言ったのに対する警告と同じく、喜びを人々に伝えるために、イエス様から派遣されることが大切だというわけです。

聖ルカは、復活の40日後に昇天があったことは伝えていますが、それは「順序正しく」書いたのであって、復活されたキリストについてのわたしたちの理解に、昇天によって何かを加えようなどとは、聖ルカは全く考えていなかった、ということです。

Q5.「キリストの昇天」は、キリストが今やすべての創造において、神様と役割を共有しているということです。

また、ウィリアム・テンプル主教の言葉を借りれば、「時間や空間のすべての制限から、キリストは解放された、ということ。地球からどこかへ移ることではなく、常に地球のどこにでも存在することである。」ということになるでしょう。

2000年11月8日
担当者 教育部長 司祭 小林史明



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