第12章 教会
紀元125年、アリスティデスというギリシャの評論家は、初代のキリスト教会について次のように記しています。
『彼らはみんな謙遜に生活し、親切である。そして彼らの間では間違ったことは発見できなかった。お互いに愛し合っている。彼らは未亡人を軽んじることもなく、孤児を悲しませることもない。持っている者は気前よく持っていない者に分け与える。外国人に会うと、彼らを自分の家に迎え入れ、あたかも彼らの兄弟であるかのように彼らとの交わりを喜ぶ。彼らはお互いを兄弟と呼び合っているが、それは肉によってではなく、霊と神によってである。』

使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。(ニケヤ信経)

私たちは「教会」(公会と訳している信経の言葉の意味は、教会と同じです)という言葉を当然のこととして使っています。ある人々は、「神を礼拝するために行く場所」を意味していると思っているし、他の人々は「神を礼拝しに行く人々」を意味していると思っています。しかし、「教会」はそれら以上のものです。

原典のギリシャ語聖書では「教会」という言葉は、エクレシアです。これは「呼び出された者」という意味のヘブライ語からの訳語ですが、ヘブライ語の文字通りの意味は「呼び出されたイスラエル民族、神を礼拝するために彼らのテントから呼び出された民族」ということです。「呼び出す」とか「呼び起こす」という考えは、私たちの教会を理解するのに大切な言葉です。

旧約の教会

教会の歴史・・従ってアングリカン(聖公会)の歴史は、旧約聖書のエクレシアになったことを自覚した人々から始まります。その人々は、歴史の中に神の御心を果たすために呼び出されました。イスラエル民族はイスラエル教会でした。

しかし、イスラエルは神の呼びかけに値しないものでした。私たちが啓示のドラマの第1幕の終わりで見てきたように、イスラエルの真の使命は、信仰的な少数者の手に委ねられました。彼らは神のメシアが彼らを救い、イスラエルを回復させ、その真の目的と運命を回復する、その到来を待ち望んでいたのです。イエス様は神のメシアであり、彼は活動のはじめから、イスラエルのエクレシアを回復しようとしました。

新約の教会

イエス様が12使徒を選んだということは意義深いことです。12という数字は12部族で構成されたイスラエルと類似しています。彼らはイエス様と特別な関わりの中で共に生活し働くために選ばれました。そして、12使徒は自ら志願して奉仕したのではない、ということも意義深いことです。彼らはイエス様によって選ばれ、呼び出されたのです。イエス様は彼らにリーダーシップを教えるために訓練しました。そして弟子たちがイエス様の派遣の意味を垣間見始めた時、イエス様は彼らに、弟子たちが・・特にペトロがイエス様の教会を建てる土台の岩になることを明らかにしました。そして新約のギリシャ語聖書ではその言葉としてエクレシアを使っています(マタイ16・18)。

イエス様は教会への入会のしるしとして、彼らに洗礼を授け、会員の交わりの食事として聖餐式を与えられました。そしてその上に付け加えられました。聖ヨハネ福音書の中でイエス様は、「わたしはまことのぶどうの木」と言われたのです。ぶどうの木は、神の最初のエクレシア(教会)であるイスラエルのシンボルです。イエス様は、ご自分がまことのエクレシアである、と言われるのです。ですから続けて「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15・5)と言われました。言い換えれば、イエス様は、「わたしの教会に属することは、わたしの命と本質を分かち合うのである。」と言われたのでした。

このことはわたしたちには容易に理解できることではありません。しかし、重要な教えです。聖パウロは何度も繰り返して、教会のことを「キリストの体」(Tコリント12・27)である、と強調します。「キリストに結ばれて一つの体」(ローマ12・5)であるとか、彼の教会の「頭であるキリスト」(エフェソ4・15)などです。彼はまた、教会に属することは、キリストの命と本質を分かち合うことである、とも言っています。

そのことは、教会が普通の社会ではないことを示しています。神の御言葉によって呼び出されたエクレシアは、その教えに従って彼らの生活で実践します。その共同体では、キリストがその民に表わされるのです。

教会の目的

イエス様の生と死と復活による神様の救いの業は、すべての男女への恩恵のためであって、選ばれたわずかの人のためのものではありません。そしてその中に教会の意味と目的があります。神様は、私たちが共に今ここで、神様が何をしようとしているかを示し、イエス様の働きを続けるために、私たちを呼び出したのです。しかし、それをどのようにして行なうのでしょうか。

第一に、私たちはキリストを説教します。主の霊が引き続き私たちの上にあることを語ります。なぜなら、貧しい人に福音を告げ知らせるために、主は私たちに油を注がれたからです。主がわたしたちを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためだからです(ルカ4・18〜19)。

第二に、すべての人々への神の愛、正義、憐れみが、確かな活力ある現実になるまで、私たちの言葉を行動に移すのです。

そして第三に、私たちの礼拝の中で神を全被造物の中心に置くことによって御国のかたちを整え、イエス様の教えに従って、主の食卓で聖餐にあずかるのです。

「教会は、世界が熱望している一致と平和と人類の繁栄のしるしであり、約束である。この使命を果たすために、世界が大変な痛みを負いながら探している、ある種の人間共同体の未来像としての先導的計画として、教会は自らを献げなければならない。教会は、もし人類がイエスを世の救い主として受け入れたらどんな世界になるか、ということを縮図として示せなければならない。」
レオン・ジョゼフ・シュエネンス

教会のつまずき

これは指摘したくないことですが、教会は常にこの呼びかけに忠実に生きてきているわけではありません。私たちの宣言は、分派集団によって、熱が入らない、偏ったものになります。社会の中に正義や憐れみが行なわれることを求めようとする私たちの関心は、私たちの安楽な暮らしが脅かされる時、簡単に忘れられてしまいます。そして、本当にしばしば私たちの神礼拝は、信心深い楽しみにすぎなくなるのです。しかし、私たちの失敗にもかかわらず、教会の主は、それでも彼のしるしを私たちの上に残してくれています。

「私は、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じる。それはどこにも存在しない。」
ウィリアム・テンプル大主教

教会のしるし

ニケヤ信経は、教会が唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会である、と言います。それは、教会が、その外側のしるしとして構成している男女に負っているのではなく、その頭であり中心であるキリストに負っているということに気づくまでは、一見横柄で、全く単純な主張のように見えます。

教会は唯一です。なぜならキリストはひとりであり、教会はそのキリストの命を分かち合っているのです。このことは、現在の教会がたくさんの別々の教派に分かれている、という事実を無視しているのではありません。どちらかと言えば、それは「教会の本質的な統一は、キリスト自身による」ということを断言しているのです。

教会は、聖なるものです。しかし、それは教会の人々が目立って道徳的にすばらしい生活をしている、ということではありません。キリストが聖であり、彼の聖霊が教会に満ちている、ということです。

教会は、公同・・世界的なものです。なぜならキリストはすべての時代に、すべての所で、すべての人々に真実であるからです。

教会は使徒的です。そのことは、使徒信経、聖書の中では、使徒的福音として宣言され、使徒的権威によって保持され、使徒的サクラメントによって刷新され、養われているのです。これが同じ教会・・神によって呼び出され、キリストによって回復され、使徒たちによって伝えられている教会なのです。

Q1.「教会」という言葉を、ギリシャ語やヘブライ語を使って、どのように説明していますか?

Q2.イエス様が12使徒を選んだ目的は何たったのでしょうか?

Q3.イエス様は、ぶどうの木のたとえを使って、何を伝えておられますか?

Q4.教会の目的は、簡単に言うと、どういうことですか?

Q5.教会が、「聖なるもの」とはどういうことですか?

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第11回のふりかえり

Q1.信経では、先ず「父なる神」、次に「子なる神」、と進んで、最後に「聖霊なる神」に対する信仰告白をします。これは、おそらく、聖書の流れからきたものだろうと思います。旧約聖書だけを正典とするユダヤ人にとっては、天地の創造者である神様だけを唯一の神として崇めているからです。しかし、新約聖書に入ると、イエス様が登場するし、昇天されたあとは、聖霊が登場します。そんな事情から「父」「子」「聖霊」の順番に信経は語るわけですが、信経の主語は「わたしは」とか「わたしたちは」で始まります。

新約聖書を読んでみると、私たち人間は、聖霊を通して子なる神様を知り、また子なる神様を通して父なる神様を知ることがわかります。

わたしたちの信仰を告白する信経は、本当は一番身近な、聖霊から始めた方がいいのではなかったか、と著者は指摘しているのです。

Q2.私たちは聖霊を通して、最終的には父なる神様を知るようになる、というのがQ1.で出てきたテーマでした。そして、「神様はご自分の存在を示すために特別な人々に聖霊による力を注いで、彼らが『窓』になり、それを通して神様の計画が見えるようにしたのだ、とヘブライ人は信じていました。」と著者は言います。そして最後には、「イエス様にも聖霊が注がれて、彼も窓になって、彼を通して人々は神様が見えるのです。」と主張します。

これを一番はっきりと書いている聖書の箇所はヘブライ人への手紙の冒頭でしょう。

『神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。』

「聖霊は窓」という言い方でテキストは始めていますが、正確には、聖霊を注がれた人が窓になる、ということでしょう。

旧約のヨセフ、ヨシュア、サムソン、そして新約のマリア、シメオンと続いて、最後にはイエス様という風に、これらの人物を通して、神様の御心が示されたということです。

Q3.福音記者の聖ヨハネは、聖霊を『窓』のように考えるのではなく、「パラクレートス」(弁護者)と呼びました。イエス様が昇天されたあと、この弁護者がイエス様に代わって弟子たちを教え、助けるわけです。しかし、昇天される前は、イエス様自身が、その公生涯の間、弟子たちを守る弁護者だった、ということです。

「パラクレートス」と言えば、すぐに私たちは「聖霊」を連想してしまいますが、イエス様のされた仕事を継続するのが「聖霊」ということを自覚してもらうために、著者は「イエス様はその生涯の間、弟子たちのパラクレートスでした」と表現したのでしょう。

Q4.使徒言行録2章では、ユダヤ人である弟子たちの集団に、そして10章ではカイサリアでコルネリウスたち異邦人の会衆にと、2度集団的注ぎがあったあとは、新しい改心者にだけ、洗礼を受けて手がおかれて彼らが教会に加わる時だけ、与えられるようになった、と著者は書いています。そして、その目的は、教会を真理へと導き、奉仕職の賜物を与えること、と言います。

賜物は、個人の利益や利己心の誇示のためではなく、教会という聖霊の共同体に与えられているのだ、ということが大切なのでしょう。

賜物のことを私たちは普通、才能と呼んでいて、自分の利益のために使うことが多いのですが、本来は神様から共同体に与えられたものであって、キリストの体としての教会が、神様と人々に奉仕するために使わなければならないものなのです。

ただ、訳していて、聖霊の集団的な注ぎは、使徒言行録の中の2度だけである、と言い切る著者の考えに私は驚いています。現代でもカリスマ運動などで、集団的に聖霊の注ぎということを強調することがあると思うのですが、これらをすべて個人へのもの、と考えていいのか、という問題です。

著者は、人民寺院の集団自殺などを愚かなこととし、理性を使って自分自身で考えることの大切さを第5回で書いていましたが、このような嫌悪感から、集団的な聖霊の注ぎは、2度だけ、と言っているのだろうか、という印象を持ちました。

Q5.については、皆さんそれぞれ考えていただけたと思います。著者は、最後のところで、『すべてのクリスチャンは少なくとも一つ、礼拝と奉仕職に賜物を持っています。そしてすべてのクリスチャンは神様に対する礼拝にその賜物を使う責任を持っています。』と書いています。

皆さん、よい世紀をお迎えください。
2000年12月6日
担当者 教育部長 司祭 小林史明



アングリカン