第14章 英国の宗教改革
「あなたの教会は宗教改革前にはどこに存在していましたか?」と聖公会員が問われた時、彼の最良の回答は、こう問い返すことである。「あなたが顔を洗う前、あなたの顔はどこにありましたか?」マイケル・ラムゼー大主教

ヘンリー8世が1509年に王位を継いだ時、すでに英国教会はローマとの間で独立した関係であったということを示す記録は存在しました。でも、ヘンリー自身は、マルチン・ルターに対する神学的反論のため、教皇の闘士として「信仰の擁護者」という称号を貰っていました。しかし、ヘンリーが彼の王位を確実なものにしようとし始めた時、すべては変りました。

ヘンリーと教皇

ヘンリーにはアーサーという兄がいて、彼が英国国王の当然の相続者のはずでした。スペイン王と協定を結ぶために、アーサーはスペイン王の娘アラゴンのキャサリンと結婚していました。しかし、アーサーは死んで、ヘンリーが王になり、そしてその協定を守るために、教皇はヘンリーに、キャサリンと結婚する特別の許可を与えました。ところが結婚後18年、彼らの間に生まれた子どもは女の子がひとりだけ(メアリー)で、ヘンリーは彼の王位を確実にするために息子が必要でした。そこで彼はキャサリンとの離婚の許可を教皇に申し出たのです。

ほかの時であれば、教皇はおそらく願いを受け入れたでしょう。そのような場合、教皇が王に許可を与えるのは珍しいことではありませんでした。しかしその時、たまたま教皇はスペイン国王に保護されていて、スペイン国王は、キャサリンの甥だったのです。

2年間、教皇は決定を延ばしていました。そしてついにヘンリーの忍耐は、アン・ブーリンが彼の子どもを出産しようとしている事実によって触発され、切れてしまいました。彼はキリストの法が許す限り、英国教会の首長である、と宣言し、彼自身がカンタベリー大主教を任命して、キャサリンと離婚し、アンと結婚しました。数日後、アンはもうひとりの娘エリザベスを産みました。

一般の英国市民にとって、この変化は大した出来事ではありませんでした。主教たちは、そのまま英国教会の主教として存在していました。司祭たちは今までどおりラテン語で聖餐式を行なっていました。教皇はもはや英国教会の長ではありませんでしたが、普通の英国のクリスチャンには、大したことではない政治的な変化であって、信仰的な変化ではありませんでした。各教会は、以前と同じように営まれていました。

真の変化は、ヘンリーの死後、息子エドワードが王になってから始まりました。

エドワードとメアリー

エドワード6世が王位を継いだのはたった9歳の時でした。ふたりの保護者によって治められていましたが、どちらもヨーロッパの改革教会の影響を受けていました。彼らは、エドワードの名によってカンタベリー大主教に英国教会の改革を命じました。

ついに各教会では変化が見え始めました。先ず、教会の礼拝は英語でささげられました。聖書は英語に訳され、クランマー大主教は、英語の祈祷書を編纂しました。暗黒の時代に教会がもたらした、いくつもの迷信は一掃されました。

クランマーはもっと改革したかったのですが、1553年にエドワードが死にました。そして彼の姉であり、アラゴンのキャサリンの憤激した娘メアリーが王位に就き、古い改革前のカトリック主義が英国で復興し、大主教は他の改革指導者たちと共に牢獄へ入れられました。そして、メアリーは彼女の王国から宗教改革のすべてのしるしを追放し始めました。

それは苦難の時代でした。メアリーは、あたかも英国教会を教皇の柵の中へ戻したように見えましたが、実は、古い道へ復帰したと言うより死の苦しみにあわせたのです。しかし、1558年にメアリーが死ぬと、エリザベス1世が女王になりました。

エリザベス1世

ヘンリー8世とアン・ブーリンの間にできた娘はエリザベス1世となりました。現代の英国教会の基礎とその形態は彼女に負っています。

エリザベスは彼女の異母弟エドワード、異母姉メアリーの時代を生き残りました。彼女は過度のプロテスタントの改革とカトリックの復興を経験し、同じ失敗をしないようにと決心しました。そこで彼女は全く過去の教会を壊そうとする者と、今まで続いているものを保とうとする者との間を操縦する、有名なヴィアメディア(中道)の舵をとったのです。

もう一度、教皇の代表者たちは英国から追放されました。しかし、極端な宗教改革者もまたそうでした。エリザベスは祈祷書を復活させ、聖職者の結婚を許可し、すべてのでっち上げの奇跡、巡礼、偶像礼拝、迷信の遺物を破壊しました。そして39箇条の中に英国教会の信仰を規定したのです。

おそらく、エリザベスの「中道」は、彼女の祈祷書の中で、いちばんよく例証されているでしょう。カトリックとプロテスタントの祈祷書類からとった聖餐の授与の言葉の中に、簡潔に統合されています。「わたしたちの主イエス・キリストの体は、あなたの体と魂を永遠の命へと保たせてくださいます。キリストがあなたのために死なれたことを想い起こし、心のうちに感謝をもった信仰によって、彼を食べなさい。」

エリザベスのおかげで、改革された英国教会は、その国家的な独立は保ちながらも、なお歴史的使徒継承の教会を維持し続けてゆけたのです。改革された教会は、なおも使徒的福音、信経、奉仕職、聖書、聖奠を保ちました。しかし教会は、水で洗って、荒っぽいタオルで拭き取った顔を持つようになりました。

「わたしの主義に関して言えば、神の言葉と、聖なる博識ある教父たちや殉教者によって証され伝えられたキリストの聖なるカトリック教会の教えに対して、正反対のことを教える気は全くない。神の言葉と聖なるカトリック教会の審判に従う用意ができている限り、わたしは外れるかもしれないが、異端になることはない。まぎれもない、教会が使った言葉を使い、そして教会の解釈を保っているのであるから。」カンタベリー大主教トーマス・クランマー

さらなる改革

英国教会には、さらなる改革の必要はなかった、と言えるならすばらしいのですが、しかし不幸にしてそうはいきませんでした。

18世紀までに、英国教会はもはや「英国にある教会」ということだけではなくなりました。それは国教会であり、法によって確立されました。しかし、この地位は必ずしも優位なものではなかったのです。教会は多くの人にとっては、国務省のようなものでしかありませんでした。教会は文化的政治的役割を負っているように受け取られました。しかし、時代の霊的な挑戦に出会うことに欠けていました。教会は、田舎の、昔ながらの奉仕職の形に適合してしまっていて、産業革命の結果の何百万もの人々の都会への群がりに対しては、ほとんど何も言えませんでした。この社会からの問題の挑戦に対して、いろんな方法でたくさんの改革運動が起こりました。

信仰覚醒運動は、聖書を基盤とした改革のビジョン持っていました。彼らは、標準的なキリスト教よりも、聖書に示された本物へ戻るように呼びかけました。

オックスフォード運動のメンバーは教会の改革を中心にしました。それは教会に対して、国務省ではなく、善行のために社会の中で独立した力を求めたのです。

キリスト教社会主義は、改革の第3の動きとして出てきました。彼らは世界における教会の役割について、神のビジョンを追い求めました。彼らは社会的弱者への奉仕者となるようにかかわるのではなく、人々が社会的弱者となることを引き起こす病気の根絶へ力を向けたのです。

実際上は、すべてこれらの運動は、そんなにはっきりと規定されませんでした。それぞれは他によって影響され、構成員はしばしば重なっていました。はっきり言えることは、彼らは共に、教会や英国社会、近代市民文明に大きな影響を与えたということです。そして彼らは宣教の努力を始めました。その結果が世界に広がったアングリカン・コミュニオンになった、ということです。

Q1.ヘンリーが英国教会の首長である、と宣言した時、英国の教会は、何が変化し、何が変わりませんでしたか?

Q2.エドワードの時の教会の変化はどんなことでしたか?

Q3.メアリーは、どのような変化を起こしましたか?

Q4.エリザベス1世のヴィアメディア(中道)を説明してください。

Q5.「さらなる改革」の中で、「教会は多くの人にとっては、国務省のようなものでしかありませんでした。」とありますが、これは教会のどのような仕事を指していると思いますか?(「国務省」Department of State  日本で言う外務省のようなもの)

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第13回のふりかえり

英国の初期のキリスト教史については、神学校でもあまり学ばない所なので、私自身いろいろ今回は本を読んで学ばされました。

Q1.について
ローマ軍がブリテン島を去ると、ピクト族、スコット族、サクソン族などゲルマン民族が大移動をして、教会や修道院の建物を破壊していきました。しかし、ブリテン島の人たちは南や西の山の中に逃げながら、独特のキリスト教を作り上げてゆきました。これがケルト教会であって、これがイングランドの回心の原動力となっていきました。

Q2.について
初代のカンタベリー大主教オーガスチンが、英国伝道のさきがけのように思われているけれど、彼を迎えた、カンタベリーを含むケント王であるエセルバートの妻ベルタは大陸から来た熱心なクリスチャンであったために、もう既に彼女の再建した聖マルチン教会が立派にあり、また王エセルバートは、大陸の文化を取り入れた国際人であったことなどが背景にあったということ、などが挙げられるでしょう。そして、その背後には、ケルト教会などの影響で、カトリックの教えを受け入れる土壌ができていたのではないか、と想像します。

Q3.について
活版印刷によって最初に印刷されたのは、聖書だったと聞いています。聖書が大量に普及しはじめると、ラテン語を理解する知識人の学者たちは、本来の聖書のメッセージと当時の教会の有様を比べて、「聖書に帰れ」と、宗教改革を望むようになったのでしょう。そして、母国語で聖書が読めるようになると、今まで教会権力に支配されていた市民たちが、改革運動に賛同するのは当然の流れです。

Q4.について
人間は、自分の力で救われ、天国に入ることができるのかどうか、ということが「免罪符」の問題には含まれていました。免罪符は、それを購入することで、自分の平凡な信仰的価値に、過去の聖人たちの非凡な価値を加えられて、聖人たちと同じように天国に行ける者として認定されることを期待しているのです。しかし、聖書を学び、そこに平安を見いだしていたルターは、「我々自身には、神の愛を手に入れる方法は何もない。神の愛は、神がありのままの我々を愛することによって、無償で与えられるもの」という信仰です。

「地獄の沙汰も金次第」という諺が日本にもありますが、そのような聖書に反することを教会が教えていることに、ルターは腹立たしく思ったのです。

Q5.について
この回答では、いろんな意見が寄せられました。教会に対する皆さんの思いが反映したものと思います。

しかし、ルターは、ただ教会の指導者が、怠惰であったことを指摘していたのではなく、自分の努力で天国に入れる、と熱心に修行していること自体が、的外れ(これを聖書では「罪」と言うわけですが)の行為である、と主張したのです。

本来、神様が決める「天国」「永遠の命」などの問題を、人間が先に判断するなど、立場をわきまえていないことと考えたのでしょう。

(アイオナ島とケルト教会のこと)
第13回のテキストを配布すると、「アイオナ島はどこにあるんですか」とか「ケルト教会とはどんな教会ですか」などの質問を受けました。

世界地図を見ても、アイオナ島はまず見つからないでしょう。スコットランドの西にあるマル島の南西の先端沖に浮かぶ、南北5.6km、東西2.4kmの米粒のような島です。
私の読んだ本の中に、アイオナ島と聖コロンバのことが次のように書かれていました。

『スコットランドの辺境に位置する、何の変哲もないこの島が西欧キリスト教国のなかでひときわ注目を浴びるようになったのは、ある人物がやって来たからである。
その人物とは聖コロンバ。
五六三年、アイルランドから渡来した彼がここに修道院を建てたことから、島はスコットランドにおけるキリスト教布教の拠点として機能した。使命感に燃えるコロンバはヘブリディーズの島々を巡り、そしてハイランド東部を統治していたピクト王国にも出向き、その王フルードを改宗させ、やがてスコットランド全土にキリスト教が広まった。そのときネス川で首の長い怪獣(ネッシー?)と出会ったことが報告されている。こうした功績によって、島は「聖コロンバの島」とも呼ばれた。』
(スコットランド「ケルト」紀行・武部好伸著・彩流社より)

このようにして発展したケルト教会は、ローマからの司教を中心とした教会とは違って、修道院長がいちばん力を持っていました。

『他にもカトリックとの相違点が多々あった。信仰上、教皇の至上権を認めない、復活祭の日が異なる、聖体拝受の儀式で一般信者に二種類の聖体を与える(カトリックではパンのみ)、聖職者の婚姻を認めるなど。』(同著より)

このようなケルト教会の習慣を見ると、現代の聖公会のあり方に共通するような特色が出てきます。

典型的なケルトの十字架を紹介しましょう。十字架に円環を結合させたこの十字架は、キリスト教が伝わる前に、太陽崇拝をしていたケルトの宗教を取り入れてこのようになった、という説があります。写真の十字架は、アイルランドの修道院の庭にあるもので、高さは5.4メートル。十字架の表面には、聖書のエピソードがレリーフになっていて、民族性豊かなケルト文化の象徴のような建造物です。
2001年2月7日
担当者 教育部長 司祭 小林史明


アングリカン