第18章 サクラメント(洗礼)
「あなたがたは、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって、洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(Tコリント6・11)

「サクラメントは、内なる霊的恵みの外なる目に見えるしるしです。」祈祷書のカテキズムの定義は、教え込むにはむずかしいことです。サクラメントというのは、それ自身ではない、別の何かを指すしるしです。しかし、サクラメントはしるし以上のものです。それは、受ける人に何か内なる霊的恵みを与えるのです。

聖公会は、常に、救いに必要な「福音的サクラメント(聖奠)」と他の5つの「一般的にサクラメントと言われるもの(聖奠的諸式)」を区別してきています。聖奠は、イエス様によって直接的に命じられたもので、洗礼と聖餐のサクラメントです。5つの聖奠的諸式は、堅信、個人懺悔、聖職按手、結婚、そして塗油です。これらは、イエス様が命じられたものではありませんが、教会の最も早い時期から行われていたものです。

洗礼のサクラメント

「罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、・・」ニケヤ信経。

わたしたちは、イエス様から洗礼をするように命じられたので、授けています。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3・5)。そしてイエス様は言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28・19)。

洗礼式の中で、二つのことが起こります。第一に、洗礼志願者は、信仰を告白し、「クレド、わたしはわたしの生活と心をあなたにささげます。」と唱えます。すると司式者は、志願者が今や新しい命の国に入ったこと、その国で、その人はキリストにあって、聖霊を通して、神に属していることを告げている間に、水につけるか、頭に水を注ぎます。

サクラメントの外側の目に見えるしるしは水であり、それにより、また、決められた言葉「父と子と聖霊の名によって、わたしはあなたに洗礼を授けます。」によって、人は洗礼を受けます。内側の霊的恵みは、罪に死に、新しい命の道に誕生することを示しています。

洗礼の意味

「ああ、全能の神である主よ、あなたはそのしもべたちに、水と霊によってもう一度生まれるように命じられました。それを洗礼の内に保ち、あなたの恵みを彼らに増し加え、賜物として受けたものを、完全な命によって守ってくださいますように、わたしたちの主イエス・キリストによって、」
(フランスの典礼書)

洗礼についてのイエス様の教えは、ニコデモとの論争で明らかに述べられています(ヨハネ3・1〜8)。イエス様によると、わたしたちは自然な誕生によって、この世界に生まれます。しかし、もし神の国の市民 ―― 神のおきての新しい時代 ―― に生まれたいなら、わたしたちはもう一度生まれて、新しい命を受けなければならない、と言うのです。聖パウロは、同じ教えを言う時、「わたしたちは、自然な誕生としてアダムにあって生まれている。しかし、わたしたちの新しい誕生では、キリストにあって生まれている。」(Tコリント15・22)、古い道に死ぬことと新しい道に立ち上がること(ローマ6・3〜11)、キリストの体の一部にされること(Tコリント12・12〜)などと表現しています。

わたしたちが、もう既に気づいているように、このことは簡単に理解できる概念ではありません。それにもかかわらず、それはわたしたちクリスチャンの経験する、生命にあふれた部分です。使徒言行録9章で、タルソのサウロは、ダマスコへ旅をしていたら、突然、天から光が彼を照らしました。彼は地に倒れ、彼に語りかける声を聞きました。「サウル、サウル、どうしてわたしを迫害するのか?」サウロは答えました。「主よ、あなたはどなたですか?」すると声は答えた「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」(使徒9・3〜5)。サウロはイエス様に会ったことがないし、彼は全く直接には迫害していない、ということは重要です。しかし、このダマスコ途上の経験によってサウロは、イエスとその弟子というのは、たいへん親しい関係にあることを納得させられたのです。ですからサウロが教会を迫害していることは、イエス自身を迫害していることになるのです。従って聖パウロは、洗礼において、ただ教会に属するのではなく、キリストの一部分そのものになる、と言うのです。

キリストの一部分として、わたしたちは、キリストの生と死と復活の恵みを分かち合っています。わたしたちの罪と神様からの分離の古い生活は洗い流され(これが、信経で「罪の赦しの"洗礼"」と言う時の意味です。)、そしてキリストにあって、わたしたちは神様の息子・娘という養子にされたのです(ガラテヤ4・4〜5、ローマ8・15〜17)。わたしたちはすべてのことを"キリストにあって"生活し、行動しなければなりません(エフェソ1・3)。そして、わたしたちの生活を通して、彼の生命を生きられるようにしなければなりません。

理解しにくいですか。もう一度思い出してください。わたしたちは理解の大変な瀬戸際に横たわっている真実について取り扱っています。それらは理解しなければならない真実であって、理性だけでなく、心でも理解する必要があります。ほとんどそれは、経験しなければならない真実です。聖パウロの、キリストと教会との同一化理解は、ダマスコ途上の復活のキリストとの出会いの結果からくるものです。パウロは残りの生涯を、その経験の説明とその解釈のために努力したのでした。

幼児洗礼

「洗礼から、幼児は神の共同体 ――教会の構成員になっています。共同体は、今後はその幼児に対して責任があります。その責任は、教父母に委託されています。真の意味において、彼らは教会を代表しています。」
(1948年ランベス会議)

新約聖書の中には、幼児洗礼への言及が全くない、ということを指摘する人々がいます。だから、彼らは、教会では子どもに洗礼を授けるべきではない、と断言しています。しかし、聖公会はそれに異議を唱えたいのです。

わたしたちは、新約聖書には幼児洗礼の言及が含まれていないけれども、幼児洗礼は存在したと推測しています。イエス様は、「だれも水と霊によって生まれなければ、神の国には入れない」(ヨハネ3・5)と言い、また、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国は、このような者たちのものである」(マルコ10・14)。だから、もし子どもたちが神の国に属しているなら、そして神の国への入会が洗礼によるだけなら、確かにイエス様は、子どもたちが洗礼を受けるべきである、と考えていたはずです。

そしてまた、幼児洗礼は、教会の最初の頃からの習慣にならっていることに注目します。使徒言行録16・15で、リディアは「彼女も家族の者も洗礼を受けた」。Tコリント1・16でパウロは「ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、」と言っています。二つの言及は、その時代に普及している習慣を証言しています。もし、家の長が信じたなら、すべての家族と一緒に、――彼の妻、子ども、しもべ、奴隷も一緒に、受けたことでしょう。それは奇妙なことではありません。たいていの両親は、彼らの子どもに代わって決断します。彼らは、子どもがどこに住むか、何を着、何を食べるか、どのように振舞うか、そしてわたしたちがどの学校に行くか決めます。そして、子どもたちの信仰を決断するのも、親が行うべきものなのです。

最後に、おそらく一番重要なことですが、子どもの洗礼は、重要な霊的真実を証言するものである、とわたしたちは信じます。わたしたちの信仰は、わたしたちが神様に対してすることから始まるのではなく、神様がわたしたちにすることから始まるのです。幼児洗礼において、わたしたちは、重要な事実を何度も何度も思い出すのです。

Q1.サクラメントというのはどういうものである、と著者は言っていますか?

Q2.聖奠と聖奠的諸式はどのように違いますか?

Q3.洗礼式の中で起こる2つのこと、とは何ですか?

Q4.洗礼の意味を、簡単に言うとどういうことですか?

Q5.新約聖書には、幼児洗礼の言及がないのに、聖公会がそれを行っている根拠は何ですか?

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第17回のふりかえり

Q1.について
聖書を大切にするあまり、人々が勝手な解釈をして、ひとりよがりの信仰になり、やがて教会に分派などができることを警戒しての表現だろうと思います。

初代教会のクリスチャンたちは、イエス様の生と死と復活の記録を持っていませんでした。イエス様から直接教えを受けた使徒たちから、口伝えでメッセージを聴くことができたからです。

ところが、時代が下るに従って、イエス様から直接教えを受けた最初の証人たちは死にはじめたために、彼らの証言を記録する必要が出てきて、新約聖書が編集されることになったのです。

聖書(新約)のない時代も、教会が存在し、聖書の各書物は教会が生み出したのです。ですから聖書は教会の所有物であって、これらは本来、教会によってだけ理解し、解釈できるものである、ということでしょう。

Q2.について
天地創造の話は、イスラエル民族、またその周辺の民族の物語や言い伝えの伝統から作られています。それは、今から何千年も前の限られた知識によって書かれているのですから、現代の科学的知識で批判するのは、馬鹿げている、ということです。

創世記第1章には、世界は6日間で完成し、7日目に神様が休まれたことが書かれています。これは、何も文字通り6日間で世界ができた、などと言いたいのではありません。わたしたちが7日目ごとに仕事を休んで、神様に感謝の礼拝をすることの根拠になっているのです。そしてまた、6日目の最後に人間ができ、被造物を支配するように命じられたことは、わたしたちが地球環境を守る責任があることを指しているのです。

Q3.について
『キリスト教の中心的事実は、本ではなく、イエスという人物である。彼自身、神の言として描かれている。』という、ラムゼー主教の言葉が引用されています。

聖書の天地創造説などを文字通り信ずる、ファンダメンタリズム(根本主義)とか、逆に聖書を単なる歴史的書物として相対化する聖書的人文学のような読み方ではなく、聖書全体は、イエス様を「神の言」としてそこに焦点を当てた書物である、という理解に立つことが大切だ、という指摘でしょう。

クリスチャンにとっての最大の関心は、聖書の文化とか伝統などではなく、聖書が証している、イエス自身なのです。クリスチャンは、イエス様のファンであって、イエス様は、生きるお手本なのです。

この視点さえはっきりしていれば、聖書が、どんな科学的な検査を受けようと、信仰が揺らぐことはないのです。

わたしは3年前、「ファイブゴスペルズ(五つの福音書)」という本を手に入れました。副題には『イエスは本当は何を言ったのか』というのがついています。

これは、四つの福音書に加えて、最近注目されるようになった、イエス様の語録集である「トマス福音書」を、欧米の聖書学者がそれぞれの研究成果から、福音書中のイエス様の各言葉について、投票したのです。イエス様が本当に語られた言葉か、あるいは初代教会の創作か、という問題についてです。信憑性の高い順に、赤、紫、灰、黒の順です。

すると、ヨハネによる福音書には、赤い色の部分がないのです。実際にイエス様が言われた、と言うよりも、初代教会の福音記者ヨハネが、自分の抱いたイエス様に対する理解を、イエス様の言葉に込めて編集したということでしょう。

だから、この本で赤い文章を読む時の意識と、紫以下の文章では、受け取り方に差がでてきます。しかし、それによってわたしたちの信仰までがふらつくことはないと思うのです。逆に、このような作業によって、真のイエス様の姿が浮かんでくるようで、歓迎すべきことと考えます。

Q4.について
マルコによる福音書を史料として使った、マタイによる福音書は、著者が使徒のマタイでないことは明らかでしょう。使徒マタイは、元徴税人であって、ずっとイエス様の弟子だったわけですから、マルコの文章など参考にする必要はなかったのです。「使徒のマタイは、ヘブライ語のイエスの言葉を集めた」と、パピアスというクリスチャンの歴史家が書き残しています。おそらくマタイによる福音書を書いた人物は、そのマタイが集めたイエス様の言葉集を貴重な資料としたのでしょう。そこで、この福音書を「マタイによる福音書」と呼ぶようになったんだ、と著者は説明しています。

Q5.について
著者は、テキストの最後の部分で、「手紙を読むというのは、電話の会話の終わりの部分を聞くようなものです。」と、その困難さを語っています。

しかし、それに続いて、「しかし、私たちは最初の世紀の教会の生活の特質を十分に聞くことになります。そして、キリストの体としての聖パウロのいだいていた教会の幻を聞くのです。その幻は2000年前と同様に、現代とも関係があります。」と、結んでいます。

聖書は、クリスチャンの手本であるイエス様に焦点が当てられ、言わば人間の理想像が描かれている、と言えるのですが、それと同様に、1世紀の特定の人々や共同体にあてたパウロたちの手紙の中に、わたしたちは、教会の理想像とか、普遍的なテーマが著されている、ということなのだろうと思います。

信徒研修会の反省

先月ご案内した信徒研修会「教会問答を学ぶ」は、38人の参加者を得て、4月29日〜30日、教区センターで行われました。

今回は、教区内の教役者が講師になったり、先日任命された小倉インマヌエル教会の3名の女性信徒奉事者が参加し、少し雰囲気が変ったように思えました。

感想を読んでみると、教区の他の教役者からも、得意な分野の話を聞きたいとか、講師からの話だけでなく、参加者同士が考えを語り合える場がほしい、ということで、参加者の積極性を感じました。ただ学ぶだけでなく、積極的に教会の何らかの伝道奉仕活動を担えるように発展したらいいがなあ、と思います。

秋の研修会も実り多いものになるように、と期待しています。

2001年5月9日
担当者 教育部長 司祭 小林史明


アングリカン