第19章 サクラメント(聖餐)
「食べることが祈ることより劣ったものであると見なすのは間違っている。両者とも私たちの日常生活にとって、切っても切れない関係にあるのだから。しかし、私は聖書という本やパンを特別なものとして扱わなければならないと思っている。なぜなら、この二つの一方を、あるいは両方を不注意に扱うことは、想像力の欠如と、物の中に神聖さを見極める目を失うことになるからだ。」ディーン・チャンドラー

洗礼のサクラメントでわたしたちは、神様の息子あるいは娘としてのキリストにある新しい生活に入ります。しかし、洗礼は始まりに過ぎません。キリストにある新しい生活は、聖餐のサクラメントによって、恒久的に刷新され、育って行かなければなりません。私たちは主イエスとの交わりに入ってゆくのです。

このサクラメントの外なる目に見えるしるしは、パンとぶどう酒を取ること、神様に感謝すること、パンを裂くこと、そして洗礼を受けた共同体の中でそれを分かち合うことを含んでいます。もし、わたしたちが最後の晩餐と最初の弟子たちの経験を思い出すなら、それだけで、このことの意味がわかります。

最後の晩餐

死ぬ前の晩、イエス様は、12弟子との最後の食事を用意されました。食事の間、彼はパンとぶどう酒を取り、感謝をささげ、弟子たちとパンとぶどう酒を分かち合いました。

これらの行為は、非日常の行動ではありません。イエス様は普通のユダヤ人たちがする毎日の習慣に従いました。しかし、彼が「これはあなたがたに与えるわたしの体」「これはあなたのために与えるわたしの新しい契約の血」と言った時、彼の行動は、特別に重要な意味を持ちました。そしてそのあと、「わたしの記念としてこれを行いなさい( Do this in remembrance of me)」と命じました。しかし、英語の訳はこれらの最後の言葉を完全には伝えていません。よりよい訳は「わたしを思い出して、これを行いなさい。現在のわたしの存在すべてと分かち合い、将来のわたしがなる存在すべてと分かち合いなさい( Do this as a recalling of me; do this to share in everything I am and everything I will become )」です。

聖餐の意味

最初の弟子たちがイエス様のこれらの言葉を理解できなかったことは明らかです。

エマオ途上の二人の弟子の物語(ルカ24・13〜31)の中で、わたしたちは、彼らがイエス様と共にいたけれど、彼のことを認めることができなかったことを読みます。彼らは共に語り合い、彼は彼らから前の週に起こった出来事について聞きました。彼らは自分たちの幻滅と混乱を彼に告げ、彼は彼らに「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない人たち。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言いました。そこで彼は、聖書の意味を明らかにし、彼らに起こった出来事を説明しました。

彼らが目的地に着いた時、イエス様はもっと遠くへ行こうとされましたが、彼らは強いて一緒に泊まるように言いました。「一緒に食事の席に着いたとき、イエス様はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、お渡しになった。」彼の行なったことに注目してください。4つの行為が、はっきり明記されています。ちょうどすべての聖餐式の式文に明記されているように。

事実、出来事全体は、聖餐式のようです。

毎日毎日、毎週毎週、キリスト教会では、世界中でこのことが行われていることを考えてみましょう。この良く知られた礼拝は、短い序文と懺悔と赦罪から始まります。そしてそれは祝福と派遣の命令で終わります。また、別に二つの部分に分かれています。一つは御言葉の礼拝で、聖書の朗読と説明を繰り返します。そしてサクラメントの礼拝では、取り、感謝し、裂き、与えることが含まれています。

さあ、エマオへの道で何が起こったかわかるでしょう。二人の弟子は、彼らの混乱を述べ、答えの中でイエス様は聖書を彼らに詳しく説明しています。そして彼が、取り、祝福し、裂き、与える中で、彼らの目はイエスの存在に開け、彼らの視界から見えなくなります。

この二人の弟子たちの経験は、多くのクリスチャンに知られています。その出来事のあと、彼らと共に、わたしたちが言えることはこれだけです。「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は、燃えていたではないか。」

わたしたちが聖餐式を行っているときは、いつでも、わたしたちキリストへの洗礼を受けた者は、わたしたちがそれを自覚していようといまいと、サクラメントの中に存在するキリストの命に養われている存在なのです。サクラメントの中で、わたしたちはイエス様の命と死とよみがえりを分かち合うのです。

聖公会は、常に、それがどのようにして起こるかを述べることに、気が進みません。わたしたちは、極端なプロテスタントの説明 ―― 聖餐式は記念礼拝に過ぎない、というのを避けたいのです。また、極端なカトリックの教え ―― パンとぶどう酒は本当にイエス様の体と血になった、というのも避けたいのです。

おそらく、聖公会の位置は、エリザベスT世女王に帰せられる、いくつかの言葉に集約されるでしょう。

『それはキリストの語った言葉であり、言葉の中にキリストはおられる。キリストはパンを取り、そしてパンを裂かれた。そして今、司祭の語る言葉によって、キリストがそこにおられる。この不思議なことが起こっていることをわたしは信じ、陪餐するのだ。』

わたしたちは聖餐式の礼拝のたびに、期待の姿勢で近づかなければなりません。礼拝の中にできるだけ完全に参加して、分かち合う中に、キリストと出会うことを求めなければなりません。

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。」(Tコリント11・23〜25)

タイトル

聖餐式のサクラメントは、多くの違った名前でよばれて、それぞれは、わたしたちのサクラメント理解の助けになります。

聖なる交わり(Holy Communion)

神様と、またわたしたちお互いの交わりを語っています。

主の晩餐(The Lord's Supper)

いつでも、どこでも、弟子たちと分かち合うイエス様の食事を語っています。

ユーカリスト(The Eucharist)

ギリシャ語のユーカリスティア"感謝"。このサクラメントで、わたしたちはイエス・キリストによって、神様がしてくださったすべてのことを神様に感謝します。

リタジー(The Liturgy)

これもギリシャ語からきています。これは民(ラオス)と、働き(エルゴン)の組み合わさった語で、文字通り、民の働きであるリタジーの中で、わたしたちは自分の心も体もささげ、神礼拝の中で働くのです。

マス(The Mass)

マスは、中世のこのサクラメントの題であって、ラテン語のミサです。ラテン語礼拝の最後の言葉「イテ ミサ エスト」から来ています。意味は「行きなさい。あなたは解放されます」。これは最も一般的な言葉でしょう。しかし、サクラメントの題名としては、一番意味のない言葉です。

Q1.聖餐のサクラメントの外なる目に見えるしるしとして、著者は4つの行為、と言っていますが、それは何ですか?

Q2.エマオ途上の物語全体が、聖餐式のようである、と著者は言いますが、似ていることを簡単に説明してください。

Q3.聖公会が、サクラメントの中で、どのようにキリストが存在する、ということが起こるか、述べることに気が進まないのはどうしてですか?

Q4.エリザベスT世女王の言葉を、自分の理解する言葉に置きなおして書いてみてください。

Q5.このサクラメントのタイトルとして、5つの言葉が紹介されていますが、いちばん気に入った表現はどれですか? その理由は何ですか?

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第18回のふりかえり

Q1.について

サクラメントは、それ自身ではない、別の何を指す「しるし」だけれど、しるし以上のものである。それは受ける人に何か内なる恵みを与える。と語っています。

祈祷書の262ページの教会問答の14の答えには、

「目に見えない霊の恵みの、目に見えるしるしまた保証であり、その恵みを受ける方法として定められています」と書かれています。

単なる象徴(しるし)だけではなく、実際に神様からの力である恵みを与えてくれる手段(方法)として定められ、それを受けた人は、恵みが与えられたという確信を持てる保証なんでしょうね。

このあたりが、第19回のテキストにある、聖餐についての、プロテスタントやカトリックの極端な考えとは違う、緊張関係にあるんでしょう。

Q2.について

聖奠は、イエス様によって直接的に命じられたもので、洗礼と聖餐のサクラメントを言います。一方、聖奠的諸式は、イエス様が命じられたものではありませんが、教会の最も早い時期から行われていたもので、堅信、個人懺悔、聖職按手、結婚、塗油の5つがあります。

祈祷書の265ページの教会問答の26の問いでは、「キリストが定められた洗礼、聖餐とともに、『聖霊の導きにより、教会のうちに行われてきた聖奠的諸式は何ですか』」と表現して区別しています。

また、1563年制定の39箇条では、次のように言っています。

『いわゆる五つの聖奠(秘跡)は、堅信礼、告解、聖職按手礼、聖婚、抹油であるが、これらは、一部は使徒達が誤って模倣したことから生じ、一部は聖書の中でも許された慣習であったが、神の定めたもうた可見的なしるしでも儀式でもないので、洗礼や主の晩餐と同等な聖奠(秘跡)ではなく、福音の聖奠(秘跡)とは見倣されない。』(第25条より抜粋)

以前の祈祷書の公会問答では、14番目の答えに『救いのためにだれにも必要な聖奠はただ二つです。』と書かれています。

それ以外の5つのものは、特に聖職按手とか結婚など、必要に応じて行うものであって、すべての人に適応するものではない、という説明もされています。

まあ、ちょうどカトリックとプロテスタントの間にある聖公会が、旧約聖書続編(アポクリファ)に独自の位置づけをしているのと似てますね。

Q3.について

第1は、志願者が信仰告白をすることです。「クレド(わたしは信じます)。わたしはわたしの生活と心をあなたにささげます。」と唱えるのです。

第2は、司式者が志願者を水につけるか、頭に水を注ぎます。その時、司式者は、志願者が新しい命の国に入ったこと、その国で、キリストにあって、聖霊を通して、神に属していることを告げるのです。

志願者からの自発的な信仰告白と、司式者を通じての、神様からの働きかけの両者が、洗礼には大切な要素として存在しているということでしょう。

Q4.について

「キリストの一部分になる」ということを著者は言いたいのだろうと思います。パウロのダマスコ途上での回心の出来事を引用して、その言葉でしめくくっています。

あるいは「古い道に死ぬことと新しい道に立ち上がること」かもしれません。わたしたちの生活が、キリストの命に生きる者となる、大きな変化だということでしょう。

洗礼式やそれに続く堅信式を含めて、「入信の式」と祈祷書では書かれていますが、この言葉は、何となく、教会に属するための式のイメージが強いですね。でも、著者は、パウロのことを引いて、「聖パウロは、洗礼において、ただ教会に属するのではなく、キリストの一部分そのものになる、と言うのです。」と述べています。これは、大変大切なことですね。

Q5.について

イエス様は「だれも水と霊によって生まれなければ、神の国には入れない」と言い、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国は、このような者たちのものである」とも言われています。だから、もし子どもたちが神の国に属しているなら、そして神の国への入会が洗礼によるだけなら、確かにイエス様は、子どもたちが洗礼を受けるべきである、と考えていたはずだ、というわけでしょう。

使徒言行録16章のリディア一家の洗礼。Tコリント1章の、ステファナ一家の洗礼などは、当然その中に子どもが含まれているはず、と推測するのです。

そして何より、わたしたちの信仰は、まずわたしたちが神様に対して始めることではなく、まず神様がまずわたしたちに働きかけてくださることから始まる、恵みの先行性ということを、幼児洗礼がよく表わしている、と考えるのです。

子どもと祝うユーカリスト

聖公会新聞に「子どもと祝うユーカリスト」についての記事が、6月号からから5回連載されるそうです。

これは、日曜学校の式文に大きな改革をする提案です。今までの朝の礼拝などをモデルにして作られた式文ではなく、聖餐式をモデルにして、洗礼の有無に関係なく、参加している人はみんな、それ礼拝で捧げられるパンとぶどう汁をいただける、というものだそうです。興味があったので、早速記事を書いた伊藤執事に式文を送ってもらいました。これは東京の聖アンデレ教会でだけで、という条件で認められたもので、私たちがすぐに使えるわけではありません。

私自身、まだ日本聖公会は、洗礼を受けた子どもに、聖餐を与えることについても、どうするか結論が出ていないので、それを通り越しての誰でも陪餐できるというのにはためらいがあります。

しかし、礼拝を通して伝道し、多くの人を招くはずの聖餐式が、実は新来会者を排除しているのではないか、という指摘が、聖公会新聞3月号の「スルスム・コルダ ― 心を神に」という加藤博道司祭の記事にもあって、考えさせられています。

連載される記事に注目したいと思います。

式文に関心のある方はお知らせください。

2001年6月6日
担当者 教育部長 司祭 小林史明


アングリカン