第21章 礼拝
ウェストミンスター寺院の早祷では、礼拝は公正で礼儀にかない、なめらかなもので、ハイチャーチの虚飾も、ローチャーチの虚飾もなく、議論の余地なく輝く、英国教会の有名な"中道"であった。向かい合った山の頂きの間の、広大な渓谷である。(スーザン・ホウォッチ)

もし、聖公会に何か特有のものがあるとしたら、それは私たちの礼拝の仕方です。すべての公祷では、私たちは式文に従います。形式的な礼拝です。

礼拝式文

辞書は、" Liturgy "("礼拝式文")について、次のように定義しています。「公祷のための教会の規則集」。教会の多くの専門用語と同じように、" Liturgy "は、ギリシャ語から来ています。それはラオス(民)と、エルゴン(つとめ)が、組み合わされています。その意味は、まったく文字どおり「民のつとめ」です。

神の民のつとめは、わたしたちの神礼拝です。聖公会においては、このつとめは、祈祷書に列挙されています。この祈祷書はわたしたちの礼拝の手引きであって、わたしたちのつとめの証言です。聖公会の礼拝理解の手がかりは、祈祷書の中にあり、祈祷書を理解するためには、わたしたちは、それがどのように発展してきたかを理解しなければなりません。

初代教会において礼拝は、クリスチャン共同体にとっては、たいへん簡素なものでした。彼らは、パンをさくために共に会い、改宗者に洗礼を施し、病者に油を塗り、罪を告白し、他者のゆるしのために祈りました。

しかし、16世紀までに、すべては変っていました。礼拝は、聖職者の専門領域になっていました。司祭たちは、教会の体である信徒が自分自身のいのりを唱えている間に、ラテン語で聖餐式をささげていました。日々の日課は、聖職者たちだけによって、手のこんだ、時間を浪費する学問の規定に従っていました。迷信がたくさんありました。人々はたまに聖餐を受けましたが、大事なイエス様の血を流してしまうことを恐れて、聖杯から受けることをやめました。1549年の聖霊降臨日の日曜日、宗教改革の結果が現れました。その日、英国聖公会の各教会に、祈祷書が導入されたのです。

祈祷書

祈祷書は、もっぱらひとりの人物、トーマス・クランマー大主教の功績でした。それには、クリスチャンの公的神礼拝や信仰から、つとめに必要なすべてが、含まれていました。聖日の教会暦がありました。早祷(Matins)と晩祷(Evensong)の、祈りの礼拝がありました。一年を通じて使えるように、特祷、使徒書、福音書を含む聖餐式がありました。人生における重大な時、 ― 洗礼、堅信、結婚、病者訪問、死者の埋葬などの礼拝がありました。

もっとも驚かせたことは、その本が"人々の理解できる"英語で書かれていたことです。また、それまでにはなかった聖書の朗読が提供されていたことです。章ごとに、毎朝毎晩、聖書は始めから終わりまで、読まれました。その上、祈祷書では、洗礼は公に、日曜日に行なわれ、聖餐式では、人々はパンと杯の両方を受けるようになっていました。

1549年の祈祷書は、完全ではありませんでしたが、それは教会の礼拝を、それに属する人々、教会の人々の間に回復させたのです。そして、人々につとめの手引きを提供し、それによって、彼らは共に神様を礼拝し、信仰生活を歩めるようになったのです。

その原則 ―(教会の礼拝式文は、教会の人々に属するということ)は、最初の1549年英語祈祷書以来、現代まで、何度も見直され、アングリカン・コミュニオンの各国の教会は、それぞれの場における、神の民の言葉や礼拝事情に応じて、独自の祈祷書を、出版しています。

祈りの終わりに、お互いに口づけをする。すると兄弟の中の司会者は、パンと、水を混ぜたぶどう酒を持ってきて、それを取り、御子の名を通し、そして聖霊の名によって、全世界の父を賛美し、栄光を帰した。・・・・彼が祈りと感謝をしめくくる時、すべての人々は、喜びを持っての同意を「アーメン」と唱えることで表わした。すると執事たちを呼んで、感謝をささげたパンと、水を混ぜたぶどう酒を参加者に配らせた。(ユスチノス 150年)

教会暦

ほとんどの宗教は、1年の季節の暦を設定しています。特に種まきと収穫などです。しかし、ヘブライ人の宗教では、これらの自然の祭りは、歴史的な出来事の年ごとの記念によって、薄らいでいきました。それは、神様がエジプトから奴隷の民を解放したことです。この点で、キリスト教の暦は、ヘブライ人の暦に従っています。わたしたちは、自然の祭りを持っていますが、最高の歴史的出来事によって、それは薄らいだのです。それは、イエス様の生と死と復活によって、わたしたちが、奴隷の身分と罪から救われたことです。

教会の暦は、この形式に従っています。

降臨節

クリスマスの前の4週間で、イエス様の誕生のお祝いをする準備にかかります。

降誕節

クリスマスイブから始まる12日間で、イエス様の誕生を祝います。

顕現節

1月6日に続く、第1から第6週のことで、わたしたちは、イエス様の栄光を宣言します。

大斎前節

灰の水曜日の前の3週間で、大斎節の準備をします。(現在の日本の祈祷書にはありません。)

大斎節

灰の水曜日から始まる6週間で、わたしたちは復活のドラマの準備をします。

洗足木曜日(聖木曜日)

復活日前の木曜日で、わたしたちは主の晩餐の制定を記念します。

聖金曜日

わたしたちは、イエス様の死を覚えます。

復活節

復活日からの7週間で、イエス様の復活を祝います。

聖霊降臨日

5月から6月の間の1週間で、聖霊の降臨と教会の誕生を祝います。

この1年間のイエス様の生と死と復活に加えて、教会は、定まった日を、聖徒の日として、記念します。赤く記されている日は、聖書の中で覚えられ、記録されている聖徒、黒く記されている日は、他の多くの神の聖徒です。(オーストラリアの祈祷書は色分けされています。)

そして、わたしたちは、今もなお自然の祭りを行っています。ほとんどの教会区で、世界的な大都市でも、収穫感謝は、教会暦の1年間での不可欠の部分です。

Q1.著者は、" Liturgy "("礼拝式文")をギリシャ語の語源から、どのように説明していますか?

Q2.初代教会の簡素な礼拝は、16世紀までに、どんな変化をしていましたか?

Q3.1549年、クランマー大主教が作った祈祷書の特色は何でしたか?

Q4.ヘブライ人の暦とクリスチャンの暦が、それぞれ自然の祭りを薄らげることになった、歴史的出来事は何ですか?

Q5.現在、教会が行っている、自然の祭りには、どのようなものがありますか?

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第20回のふりかえり

Q1.について
堅信式で、わたしたちは、洗礼の誓約を"堅める"のだ、と著者は言います。幼児洗礼の場合など、両親と教父母が代わって誓約したことを、わたしたち自身で公言することになるからです。

尚、この式では、主教が候補者に手を置きます。候補者が、大人の信徒として、委嘱されていることを行うための聖霊の恵みを受けるためですが、これはちょうど、聖職が主教の按手によって、職務の権威を与えられ、またそれを実行する聖霊の賜物を受けるのと似ています。ですから、堅信式のことを"信徒按手式"とも呼びます。クリスチャンは信徒も聖職も、奉仕者であることを表わしています。

Q2.について
「権威」と「賜物」については、Q1.でも触れましたが、「キリスト教神学事典」(教文館)で述べられていることを紹介しようと思います。

権威には、外的な権威と内的な権威がある、というところから解説が始まります。

『外的権威とは、職務上で個人に帰せられる威力、または公職上の地位に付随する威力のことである。ある所に車を駐車することを警官に禁止され、それに従うとしても、それは警官個人の言葉そのものが内在的な重みを持っていると信じることではなく、警官が法の番人としての職務を帯びていることを認めるからである。内的権威とは、強い説得力を持つ議論の中に、また人を従わせる力を持つ道徳的・霊的な模範または経験の中に内在する権威である。例えば、ある婦人がテレビの広告を見て何かを購入するとすると、婦人を動かしたものは広告主の言葉と行為とが持つ権威である。司教が持つ権威は外的な権威の一つであり、書物を書く人や聖人の持つ権威は内的権威に分類される。』

ここまで説明したあとで、『新約聖書に見られる権威は、そのほとんどが内的権威である。』と言い、『12使徒にしても、使徒に任ぜられただけのことで権威を授けられてはおらず、キリストが地上の生を送っておられた頃になされたこと、および復活の主の顕現を証しする位置に置かれているがゆえに、権威が認められているにすぎない。』と、大切なのは内的権威であることを語っています。

『しかし徐々に教会が固定化した比較的均質な組織となっていくに従い、職務上の権威、外的な権威が不可避的に重要性を増していくことになる。』『中世の終わり頃には、教会は無数の外的権威に支えられた機関となっていた。』『今日、宗教の領域で一般に権威として認められるのは、内的権威のみになっている。教父たち、公会議、そして教皇などの宣言などには単に歴史的な価値(つまり、彼らの生きた時代の考え方を示す資料としての価値)しか認められない。』

つまり、今日の聖職制度が、単に「外的権威」でしかないのなら、一般社会には全く認められない、空威張りの権威主義に陥ってしまう、ということではないか、と思うのです。そのような奉仕職の権威が、冒頭の説明にあるような、強い説得力を持つ議論の中に、また人を従わせる力を持つ道徳的・霊的な規範または経験の中に内在する、内的権威になるために、テキストが語るように、聖霊の特別な『賜物』が必要ということになるのではないでしょうか。

人間の作り出した職務上の『外的権威』に、力を与えることができるのは、神様からの恵みの賜物によるのだ、ということを、聖職按手式で、わたしたちは十分に理解しておく必要があると思います。

Q3.について
回答をいただいた人たちはみんな、今まで個人懺悔をしたことがない、ということでした。そして、わたし自身も、その存在は知っていても、行ったことはありません。

わたしが神学校を卒業して間もない頃、教区の教役者会で個人懺悔が話題になりましたが、「わたしたち自身、信徒の個人懺悔を聴く準備ができているのだろうか。」という意見がでて、そのままになったように思います。

牧会上の秘密が本当に守られているのか、信徒に強制はできないにしても、「個人懺悔をしたい。」という申し出があった場合に対応できるように、聴く側は、訓練や経験を積んで、外的権威の権威主義になってしまわないように、準備しておく必要を感じています。

Q4.について
ホセア書を読んでいただけたでしょうか。結婚生活をホセア書から学ぶというのは、内容があまりに強烈ですので、難しいかと思いますが、旧約聖書に記された神様の愛の中で、私にはとても印象深いものでした。今回の回答の中で、次のような感想がありましたので、紹介します。

「私は神ヤハウェはとてもきびしい神と思っていました。ホセア書を読んで、それが誤りであることがわかりました。神に背き、離れたイスラエルの人々に、悔い改めヤハウェなる神に帰るようすすめ、神の救いと愛を示しておられることを識りました。特に11章の幼いイスラエルを愛し、エジプトよりイスラエルを呼び出し、わが子とし慈しみ愛して導いてくださっているのに、イスラエルは神より去っていきました。しかし神は、イスラエルを見捨てることなく、憐れみ、怒りをもっては臨みはしないとおっしゃっています。神は背信のイスラエルを見捨てることなく、不変の愛をもって接しておられるのを識りました。」

私は、大学生の時、この書を読んで、旧約の神様のやさしさに触れた気がしたのですが、みなさんはいかがだったでしょうか。

Q5.について
「塗油」については、「日本聖公会祈祷書解説」(管区事務所)に、次のような解説が載っています。

「訪問の式のはじめの全体的な礼拝細事規定(324ぺ一ジ)にあるように、初代教会の初めから教会は病気の人に油を塗り、からだと魂の回復を祈って来た。ヤコブの手紙にある通りである。しかし歴史の歩みの中で、この塗油は病気が重く臨終の時に罪のゆるしを与える式、死に近くなり、もはや人知では術もなくなった時になってはじめて、ことによると癒して頂けるかもしれないとの願いをもって神のみ手にゆだねる式と理解されるようになって行った。そういうわけで、中世期を通じてごく最近まで西方教会ではこれを終油(extreme unction)と呼んできた。しかし上述のようにこれは臨終ではなくても病気の重い時に、心とからだのいやしを願うための式である。初代教会では、病気の重い時8日間も塗油に続けてあずかった例がある。この最近40年程の間に次第にこの塗油が、臨終の時の死への準備としての式ではなく、病気が重い時に本人が望めばいつでも、信者なら誰でも受けられる心とからだのいやしを願う聖奠的諸式の一つであるとの理解に改められて来た。すでに1959日本聖公会祈祷書においてもそのことが意識はされていたが、1990日本聖公会祈祷書ではそれが一層明らかにされた。ヤコブ書朗読のあとの唱和は従来のように意識がなくなるか薄れてからこの式にあずかるというよりは、それでもよいがむしろ、明らかな信仰をもって自分の塊とからだを主にゆだねることを表わしている。そして、癒しのみ業にあずかり、魂のいやしである罪の赦しと同時に、からだのいやしである健康の回復 ― もし神がゆるされるのであれば ― を願い、魂もからだも主なる神のみ手にゆだねて祈る聖奠的な式である。このことはそれに続く祈りの中にもあらわされている。」

もう少し解説が続いています。関心のある方は、お調べください。

来月のテーマは「祈り」です。

2001年8月1日
担当者 教育部長 司祭 小林史明


アングリカン