第22章 祈り
「わたしたちは、自分たち自身をささげている。こんな方法やあんな方法で、何とかして神様のために働こうとしているのだ。わたしたちは、あたかも良き羊飼いに雇われている牧羊犬のように。あなたは牧羊犬が働いているのを見たことがあるか。それは感情に振り回されやすい動物ではない。たいへん落ち着いて仕事をする。悪天候、荒れた土地、自分自身の安楽な暮らしを気に留めない。ほとんど主人になでられるようなことはない。しかし、彼の忠実さと、主人との親密な関係は、世界の中でもっとも愛情にあふれたもののひとつである。時々、彼は羊飼いを見ている。そして休憩時間が来たら、彼らは一緒にいるのが普通である。これをあなたの愛のモデルにしてほしい。」エベリン・アンダーヒル(1875〜1941)

祈りを説明すると、それは食事みたいなものです。それについていくら話しても、"祈り"という言葉の傘の下の無数の体験を表現することはできません。

若く、頭を剃った、シンバルを手に持った男が、心をやわらげるクシュナのマントラを歌っているのは、老人のユダヤ教のラビが、祈りのショールを巻きつけて、トーラーを抱えて、体を揺らしているのに似ています。オーストラリアのアボリジニが石の中で使い古しの布を指にまとって、何度も走ること、家庭の主婦がテントの会合で舌を使って歌うこと、禅の弟子が手をたたきながらじっと考えること、チベットの隠遁者が祈りの輪を回すこと、老シスターがロザリオをたぐること等、わたしたちはそんな風に行うのだけれど、これらの人々はすべて祈っているのです。「それらのいくつかは、祈りではない。何故なら、彼らはクリスチャンではないから。」と言うことは、「彼らは、イタリア料理を食べていないから、食べているとは言えない。」と言うようなものです。

食事に似たこの祈りは、全ての人類に備わったものです。わたしたちはみんなひとりの神様の子どもたちであり、わたしたちには、祈ることの必要性と能力が備えられています。

どのように祈るか、というのは別の問題です。食べるのに良い方法と悪い方法があるように、祈りにも良い方法と悪い方法があります。そして、独特の中華料理があるように、クリスチャン独特の祈りの形があります。

クリスチャンの祈り

クリスチャンのすべてのものがそうであるように、わたしたちもイエス様と彼が祈りについて語ったことから始めます。

イエス様は、祈りとは、「祈りを言うこと」よりもずっとそれ以上のものである、と言われます。彼は、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6・5〜8)と言われました。

また、彼は「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」(マルコ12・38〜40)と言われています。

そしてまた、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7・21)と言われました。イエス様にとって、祈りは行動から分離することのできないものでした。彼は、「神に祈る人は、その祈りを行動に移さなければなりません。そして、他者に奉仕することで神への愛を見出さなければなりません。」と言いました。

他者への正義と愛が、祈りと一緒に強調されるのは、新しいことではありません。イエス様はユダヤ人でした。ですからユダヤの祈りの伝統を受け継いでいます。彼はユダヤの祭りを忠実に守り、シナゴグの礼拝に出席し、日ごとの食物と飲み物への祝福をしました。そして、良いユダヤ人がいつもするように、朝、午後、夕の祈りをしていました。そしてユダヤ人として、イエス様はユダヤ教の預言者の伝統も受け継ぎました。

預言者の伝統

預言者は、祈りのイスラエル人でした。わたしたちは、預言者のことを、未来を予言する"予言者"と表現する時、過小評価しています。ユダヤ教の預言者は、"予見"を扱うのではなく、"洞察"を扱います。彼らは聖書を学び、時のしるしに気づき、人間が神様の法を無視することを選んだ時、人間の行動の、避けることのできない当然の結果を、はっきり示したのです。預言者アモスは、「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても 穀物の献げ物をささげても わたしは受け入れず 肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ。」(アモス5・21〜24)と言えたのです。そして預言者エレミヤは、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。」(エレミヤ7・3〜7)と言えたのです。

預言者たちにとって祈りは、イエス様にとってと同じように、神様の御心を行うことと、分けることはできませんでした。同じように、活動的な愛を隣人へのかかわりから分離することはできませんでした。このように、イエス様にとっては、真の祈りは、愛の状況の中で言われる祈りであり、その愛は神様へと隣人への愛であったのです。そして、いったんわたしたちがクリスチャンの祈りについてのこの基本的真実を理解するなら、わたしたちの祈りの方法などは、ほとんど問題になりません。

「私は普通4時に起きる。それは静かで平穏な時間である。そこでわたしは、自分自身を落ち着かせる必要がある。わたしが神様との結びつきのために確保するように努める時間である。わたしは神様に集中しようとする。するとその日のあとの時間に神様が影響するのである。この時間の内に、わたしはひざまずき、胎児のようにしゃがみこむ。神様の存在の中で、赤ちゃんのようだ。抱擁され、腕に抱かれ、あなたは特別な、かわいい、愛された存在である、と気づかせるために」 デズモンド・ツツ大主教

祈りの方法

「チャールズT世と国会との戦いの朝、アストレー卿はこのように祈った。『主よ、今日わたしは大変忙しい日になりそうです。もし、わたしがあなたを忘れても、わたしを忘れないで下さい。』」

食通たちは常に、調理の異なった形式や方法の比較や利点について議論してきたし、してゆくでしょう。そして、クリスチャンは祈りの異なった形式や方法の比較や利点について議論してきたし、してゆくでしょう。そして、結論的には、それは問題ではありません。すべては好みの問題なのです。そして、聖公会では、わたしたちはそれを自由に選ぶことができます。

ある聖公会員は、祈祷式文の形で祈り、ある人は異言で祈ります。ことばを出さない黙想を好む人もいるし、マントラを使う人もいます。「心霊修業」の訓練を必要とする人がいるかと思えば、台所の流しで祈れる人もいます。ある人は家の中に、祈りの部屋をみつけます。わたしたちのほとんどは、いくつかの違った方法を、気分に従って用いています。わたしたちはみんな、独特の違った存在であり、それが理由となって、わたしたちの祈りも、・・・それはわたしたちの父なる神様との親密な関係なので、それゆえ、独特で異なった形態をとるのです。

祈ることを学ぶ最良の道は、祈ることです。学ぶためのいちばん大切なことは、実際にすることです。あなたにいちばん合った祈り方を見つける道は、選ぶべきものを学ぶために、あなたの部屋に行き、ドアを閉めて、やってみることです。あなたにいちばん合うものを見つけるまで、多くの方法をやってみるのです。そして、あなた自身のものになるまで、あきらめないで、開発改良を続けてみてください。

「神様のために、いくらか小さな部屋をあけわたしなさい。彼の中にいて少し休みなさい。あなたの心の内なる部屋に入り、神以外のものをすべて遮断しなさい。捜し求めることの助けとなるように、あなたのドアを閉めて、彼を捜しなさい。わたしの心の全てよ、語りなさい。神様に語りなさい。あなたのみ顔を求めている、と言いなさい。主よ、あなたのみ顔をわたしは求めています。そして、今来て、主よわが神よ、わたしの心に教えてください。どこで、どのようにあなたを捜せるのか、どこでどのようにあなたを見つけられるのかを」 カンタベリー大主教 アンセルムス1033〜1109

Q1.エベリン・アンダーヒルの話の中に登場する牧羊犬は、だれのことを意識して語られていると思いますか?それは何故ですか?

Q2.いろんな宗教の祈り方を、著者は食事にたとえていますが、「わたしたちはみんなひとりの神様の子どもたちであり」(2ページの終わりの方)と言う時の、神様は、どの宗教も同じ神様のことを語っていると思いますか?あなたの考えを聞かせてください。

Q3.「神に祈る人は、その祈りを行動に移さなければなりません。そして、他者に奉仕することで神への愛を見出さなければなりません。」(3ページの終わりの方)と、イエス様が言った、と著者は言いますが、福音書のどのあたりが、この言葉に相当するでしょうか?

Q4.「ユダヤ教の預言者は、"予見"を扱うのではなく、"洞察"を扱います。」(4ページ前半)とは、具体的にはどんな役割を指すのでしょうか?

Q5.あなたはどんな祈り方をしていますか?紹介してください。

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第21回のふりかえり

Q1.について
"Liturgy"という英語の単語自体、英和辞書では、「礼拝」「聖餐式」「礼拝儀式規定集」「祈祷書」「公共奉仕」など、たくさんの日本語に訳されていて、英語を使う人々がどのようにこれをとらえているのか、私も理解しにくいのですが、著者はギリシャ語から説明しています。ラオス(民)とエルゴン(つとめ)が組み合わされて、レイトルギア(「奉仕」と一般的に訳されるギリシャ語)という言葉ができて、そのまま英語になったようです。そこで「民のつとめ」と説明し、「神の民のつとめは、わたしたちの神礼拝です。」というふうにまとめています。

五十嵐主教さんがよく説教で引用される「主を賛美するために民は創造された。」(詩102編19節)にも通じることだと思います。

Q2.について
礼拝は、聖職者の専門領域になり、民衆には理解できないラテン語で聖餐式がささげられました。そして、大事なイエス様の血を流してはいけないと、迷信のようなことから、聖餐式で会衆は、パンだけいただくようになっていきました。民衆からかけ離れたものになり、「民のつとめ」であるはずの礼拝が、「聖職者のつとめ」になってしまった、ということでしょう。

Q3.について
クランマー大主教の作った祈祷書には、クリスチャンの公的神礼拝や信ずるべき信仰内容、またつとめに必要なすべてが、含まれていました。その中でも、一番の特色は、本が、"人々の理解できる"英語で書かれていて、英語の聖書の朗読ができるように、日課表が書かれていたことでしょう。そして、洗礼は公に、日曜日に行われ、聖餐式で会衆は、パンと杯の両方を受けるようになったのです。礼拝が「民のつとめ」として回復した、ということではないでしょうか。

このあたりの礼拝の変化については、このテキストでは簡単に触れられているだけですが、礼拝に関心のある方は、「言葉と水とワインとパン」(キリスト教礼拝史入門)ウィリアム・ウィリモン著。新教出版社をお読みください。

信徒奉事者/特任聖職のパンフレットにもこの本を紹介しましたが、受講者の回答の中で、この本に触れてくださった方もありました。

ユダヤ教の礼拝の伝統から現代の礼拝まで扱われており、英国の宗教改革における、第一祈祷書(1549年版)、第二祈祷書(1552年版)も、わかりやすく書かれています。

Q4.について
ヘブライ人の暦の場合は、神様がエジプトから奴隷の民を解放してくださったことです。本来は、春に農耕民が大麦を取り入れる前に、麦に有害な酵母菌を家から取り除くことと、遊牧民が冬の牧草地から夏の牧草地に移る前夜、旅の安全のためにテントの入口に血を塗ることで、悪魔が通り過ぎるようにと、魔よけのために行ったものが、出エジプトという出来事を記念することと結びついてできた伝統の祭りになりました。キリスト教の暦の場合は、過ぎ越しの子羊が、実はイエス様のことだったというわけで、その生と死と復活によって、私たちが罪の奴隷から解放されたという祭りになるわけです。

しかし、このような救いの歴史的出来事も、いつのまにか風物詩になってしまうことが多いですね。

Q5.について
私は現在幼稚園のある教会にいますので、秋の収穫感謝祭は大きな行事になっています。しかし、これなどは、逆に歴史的出来事が先行している場合でしょう。

アメリカのプロテスタント教会からの影響だと思いますが、1620年にメイフラワー号に乗ってアメリカに着いた人々は、きびしい冬を乗り越えて、先住民の助けによって春に穀物の種を蒔き、秋に豊かな実りが与えられて、「新大陸」で生きていける確信が持てて、先住民を招いて感謝祭をしました。11月の第4木曜日がそれにあたっています。

もっとも、収穫感謝祭は国によって祝う時期が違っているようです。

また、日本聖公会では、文語の祈祷書では、「豊年のため」の祈りを昇天前祈祷日に用いることになっていましたし、現在の祈祷書では、119ページの「産物と産業のため」の祈りを、昇天前祈祷日に用いてもよいことになっていますので、それらが自然の祭りの名残かもしれませんね。

来月は、今回のテキストでもふれられている、クリスチャンの祈りと関係の深い、「クリスチャンの行動」について、学ぶ予定です。

2001年9月5日
担当者 教育部長 司祭 小林史明


アングリカン