(17)私という船

信経というのがどんなものか、先す考えましょう。時々、大人はおかしなことを言います。「正しいことを行えば、何を信じていようとかまわない。」というふうに。しかし、正しい信仰を持っていなければ、私たちは、正しいことは行えません。キノコ採りに行ったとしましょう。そして、毒キノコを採って調理して食べました。良いキノコだ、と間違ったのです。するとあなたは腹痛を起こすか、あるいはもっと悪いことになるでしょう。あなたが間違った信仰を持っていたからです。それと同じように、間違った大人は、腹痛よりずっと悪い痛みを霊魂に持ちます。なぜなら、彼らは神様やキリスト教について間違った信仰を持ってしまったからです。

私たちの主は正しい信仰を使徒たちに教えられました。そして、彼らはその信仰を他の人々に次々と伝えて、ついに私たちの所まで届きました。それは大変に長いリレー競走のようなもので、二千年近く続いています。使徒たちはそれを『健全な言葉』(Uテモテ1章13節)と呼んでいます。『健全な』とは『良い』という意味で、中身の新鮮なリンゴのようなものでしょう。これは使徒たちが聖書のまとめられるよりももっと前にクリスチャンになりたい人々に教えた最初の信経でした。(もし読む時間があれば、使徒言行録8章26節から39節を読んでください。それはこの最初のクリスチャンの物語です。37節には聖フィリポが洗礼を授ける前に何を言ったか書かれています)。私たちの主が教会を設立され、昇天日に天国へ帰られた後、聖霊なる神様が使徒たちにこの信経を教え、今日も教会を導いておられます(ヨハネ16章13節)。

私たちは『健全な言葉』である使徒信経を学び、理解しなければなりません。その中に正しい信仰の全ての箇条が入っています。それはちょうど暗い嵐の夜に輝く灯台の光のようなものです。それによって、“私”という船は“この世の荒波を越えて”天国の港につくのです。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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