(20)家に帰る道を示してください

『私は神を信じます』

あなたがお母さんに頼まれて、五百円のママレードを買いに行ったとしましょう。ところが割引きで四百円になっていました。すると隣りの棚に百円のチョコレートが置いてあるのを見ました。あなたの心に一つの声が『それを買いなさい。』と言うかもしれません。『お母さんには分からないよ。』ところが『それはいけない。』と言うもう一つの声がしました。『それは盗むことになる。』それは神様か私たちに語る声です。

すべての人は神様によって“神にかたどって創造され”ました(創世記1章27節)。その意味は、外側の肉体が神様と似ている、ということではなくて、内側の霊魂が似ているということです。それが、『なぜ私たちはだれも神様なしには幸せではないのか』ということの理由です。罪というのはしばしば、『それを考えることは良いこと、そして時々それをすることは楽しいこと』のように私たちには思えたりします。しかし、その後でいつも『こんなことをしなければよかった。』と後悔します。私たちはウソを言ったり、盗んだり、不親切だったり、礼拝に欠席していたら、楽しい気持ちにはなりません。でもそんな時、自分では気にしないようなフリをします。ところが、本当は深く落ち込んでいます。そして反省し、誠実になり、優しくなって、個人懺悔や聖餐式にも行きたいと思うのです。なぜなら、私たちは神様によって“良いもの”として造られだからです。

すべての人は良心を持っています。それは、言わばあなたの天への磁石みたいなものです。それは、どっちが北かを指しません。そうではなくて、何が正しく何が間違っているかを示すのです。たとえそれが小さい声でも、あなたはエリヤのように(列王記上19章9〜13節)従うこともできますし、従うのを拒むこともできます。しかし、良心は常に『これをしてはいけない』『あなたはこれをするべきだ』と言い続けます。ある人々は神様を信じることができません。なぜなら、彼らは神様の声を聴かないからです。それは、本当は良心の声を聞くことを拒んでいるということでしょう。夢中になって外で遊んでいて、お母さんが呼ぶのを聴かないあなたのように。私の良心は私の天への磁石です。これが、『私は神を信じます』というもう一つの理由です。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

楽しい問答会