(24)トムの親指

『わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。』

神様が人間を造られた時は、他のすべてのものと同じように『たいへん良いもの』でした。ところが、罪がこの世に入ってきました(創世記3章1〜6節)。そうすると、美しい世界とその中のすべてのものは、人間を含めて、悪くなって、傷つきました。それは、ちょうど床に落ちた時計が、動くことは動いていますが、早くなったり遅くなったりで、示す時間を信じられなくなったようなものです。この罪が原因で、痛みや老いや悲しみや戦争や死が始まったのです。この罪のためにアダムとエバは美しい楽園から追放されて、悲しみの世界で生活しなければなりませんでした(創世記3章23節)。

しかし、これは神様の失敗ではありませんでした。神様が人間をお造りになった時、他のものにはない自由意志という、良いものでも悪いものでも選び取る力を与えられました。そして神様はアダムに『エデンの園で生活するあなたが、してはならないことがひとつだけある。』と言われました。人間は神様に従うことも従わないこともできました。罪とは神様に従わないことです。

トムは、森へ行きました。森の中の一か所を除いてどこでも遊んでいいのです。禁止の立て札がハッキリ書かれていて、彼にもわかります。彼はそれを読んで、親指をモジモジさせて、独り言を言いました。『どうしようかなあ。』彼は入りたければ入れます。彼には自由意志という、良いことも悪いことも選べる力があります。しかし、もし中に入って捕まったら、騒ぎになってもしかたがありません。立て札は、神様の意志を伝えているのであって、トムが捕まっても、それは立て札の責任ではありません。

私たちはみんなアダムとエバの子孫です。彼らの持ち込んだ罪と悲しみの世界に生まれました。このような状態で生まれたことを『原罪』と呼んでいます。ですから、これは私たちの失敗ではありません。『原罪』は、洗礼によって洗い落とされました。しかし、私たちはしばしば神様の意志を知っていながらそれに従いたくない、罪に向かう傾向があります。それは、坂に置かれたボールが自然に低い方に転がるようなものです。良心の声を聴いて、正しいとわかっているのに、それを行うのは難しいことです。しばしば、私たちもトムのように『どうしようかなあ。』と考えるのです。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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