(29)十字架のしるし

『ボンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ』

教会や修道院の建物を見ると、その上に十字架が掲げられているでしょう。十字架は、世界中に立っています。私たちの主は、神様がどんな方であるかを示すため、そして私たちを贖い、人間の罪によって(25)閉ざされた戸をもう一度開くために、この世に来られました。罪の値を支払うために、これ以上の良い方法はありません。彼だけが、天国の門を開いて、私たちをその中に入れることができたのです。彼だけが、進んで体と心に大変恐ろしい痛みや苦しみを伴う犠牲を負ってこれを行うことができました(マタイ26章38節、ルカ22章44節、マタイ27章26,29節)。十字架に六時間かかることによって、そして十字架の上で死ぬことによってです。人間は、罪をこの世にもたらしました。ただ人間だけが、この世を贖い、『罪の値』を贖うことができたのです(ローマ5章12〜21節)。

私たちは、特に大斎節の間、主の苦しみを考えます。(40日の間私たちは特別に私たちの罪について黙想します)。最後の二週間は、受難週と聖週と呼ばれています。聖金曜日、これは彼が十字架にかけられた日ですが、この日は、私たち全てのクリスチャンにとって、一年で一番厳粛な日です。ですから、たとえ一年で一番幸せな季節であっても、私たちは十字架が世界を救ったことを忘れてはいけません。いつも礼拝堂の十字架は、私たちが礼拝しているのを見下ろしています。全ての祭壇には十字架があります。聖餐式の司祭の服には十字架があります。洗礼の時には、私たちの額に十字架の印が付けられます。そして、私たち自身、自分で十字架を記します。礼拝堂の壁には、十四の十字架の絵が掛けられて、聖金曜日に起こったことが描かれています。

『ポンテオ・ピラトのもとで』とあるように、彼がパレスチナの中、ユダヤのローマ総督であった時、私たちの主は、33才で十字架にかけられました。そして十字架は、すべてのクリスチャンの栄光の印になったのです。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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