(30)回復

『ボンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ』

私たちの主は、その完全な人間としての生涯とその苦しみと死によって、それまで分かれていた神様と人間、天国とこの世を再び結びつけられました。これを日本語では、“贖罪”と呼びますが、英語では、アトーンメントと言います。この言葉を分析すると、アトワン(ひとつに)メント(すること)、となります。お互いに、二つに分かれていたものを一つにするわけです。

夫婦げんかをして、別居している人たちがいたとしましょう。彼らの共通の友人が、それを見かねて骨を折り、苦労の末、仲直りできて、また夫婦仲良く暮らせるようになったとすれぱ、この友人は、アトーンメントをしたことになります。私たちの主が世界全体になさったこととよく似ています。

ただ主だけが、神様と人間を和解させることができたのです。ただ主だけが、神様の聖さと罪の恐ろしさをこ存じでした。ただ主だけが、世界全体の罪の嘆きに対する完全な行動をとることができました。それらすべてをただ主たけがご存じだったのです。ゲッセマネの園の苦しみの中(ルカ22商39〜44節)、十字架の上の三時間は昼間でしたがまるで真夜中のような中(ルカ23章44節)、主ご自身の自由意志によって、彼の純粋で罪のない霊魂に、世界の全ての罪を、あなたの罪も私の罪も含めて、背負われました。神様にとっては、時間など関係ありませんから、現在の私たちの罪も担えたのです。これは大変恐ろしいことだったので、主でさえも、父である神様が自分をお見捨てになった、と考えられたほどでした。そして叫ばれたのです(マルコ15章34節)。

しかし、ついに主は、私たちのために、アトーンメントを完成させてくださいました。私たちの主イエス・キリストによって、聖金曜日から始まった私たちみんなの天国の希望は、いつの日か、実現するのです。どうして私たちが十字架を愛しているかわかったでしよう。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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