(54)愛の表現

第一の戒めは『私たちには、神様を愛し、従ってゆく信仰を持つ、という負い目・義務がある』ということでした。第二の戒めは『行いと言葉でどのように信仰を表現するか』ということです。神様に対する私たちの義務は、神様を礼拝することです。あなたは、お母さんを愛しているし、信頼しているでしょう。でも、もしあなたが、朝、お母さんと顔を合わせても「おはよう」とも何とも言わなかったり、洗濯や掃除の手伝いをしなかったなら、また学校から帰ってもその日のことを何も言わなかったなら、そしてお母さんのことを信頼しないなら、お母さんは、あなたがお母さんのことをあまり愛していない、と思うでしょう。それと同じように、神様はあなたに、礼拝で神様に対する信仰を表現してほしい、と期待しておられるのです。

第二の戒めは、祈祷書の教会問答のものでも長い文です。聖書の中のものはもっと長いので、ここにはすべてを書けません。そこで、その中のいくつかの言葉を説明します。

1.どんな形の刻んだ像をも。 これは十字架の像とか聖人の像のことは意味しません。十字架像は美しいものです。それは彫られた像であり死の像ですが、それは神様がいかに私たちそれぞれを愛しておられるかを常に思い出させてくれます。

十字架は私の机の上にもひとつあります。それは、子供の時もらったものですが、ずっと私の信仰の支えとなりました。教会の礼拝堂の中に、聖人の像を置いている所もあるでしょう。聖母マリアや聖ヨセフなど、彼らは教会の英雄たちです。しかし、彼らを礼拝するとしたら、それは間違っています。それらは石膏像か木造の像です。でも、神様に対する私たちの礼拝を助けてくれます。私たちには、まだ神様を見ることができないからです。

2.ねたむ(熱情の)神。 私たちの中にあるねたみは間違っています。なぜならそれは私たちの自己愛が原因だからです。しかし、神様のねたみは間違ってはいません。それは私たちに対する神様の愛によるからです。神様は私たちが孤虫な中で残されたり、神様を失うのを見ることに耐えられないのです。

3.罪の影響。 私たちが罪を犯すと、同時に人を傷つけてしまいます。これは当然のことでしょう。もしある人が刑務所に入るなら、その家族に悲しみをもたらします。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

楽しい問答会