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(56)礼拝への思い
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- もしあなたが、部屋でくつろいで最新のおもしろい本を読んでいる時、司祭がドアを開けて入ってきたら、あなたはきっと「やあ、こんにちわ。良くいらっしゃいました。どうぞ、お掛けください。」と言うことでしょう。ところが、見上げると、そこにあの総理大臣が立っていたなら、驚いて本を手から落として、立ち上がってしまうでしょう。何を言ったらいいのか、わからないかもしれませんね。しかし、もしそこに立っているのが、私たちの主イエス・キリストなら、あなたは考えることなく、そこにひざまずくでしょう。
- 私たちの礼拝には二種類、公的と個人的な礼拝がある(55)と言いましたが、また礼拝のしかたにも、二つの方法があるのです。私たちは、みんな心と体でできています。そして、全存在をかけて礼拝します。そうすることは私たちの義務であって、心で礼拝すると同時に体でも礼拝するのです(詩編95編6節、出エジプト記3章5節)。あなたの心は、あなたの体を通して表れます。気持ちは行動に表れるのです。ですから、もしあなたが主を見れば、自然とひざまずくことになります。
- 教会の公的礼拝では、ひざまずくのがいちばん自然な姿勢です。頭をかいたり、ゴソゴソ動いてはいけません。神様の前でひざまずいた最初の人として私たちが知っているのは、ソロモン王でしょう。彼は、大変賢い人でした(列王記上8章54節)。私たちの手の行動に用心してください。これによって祈りの深さが変わってくるんですから(出エジプト記17章12節)。立ったり座ったりする時、モジモジしてはいけません。つぶやきや不必要な内緒話をしてはいけません。主イエス様の名前を唱える時は、おじぎをしましょう。聖別されたものの前では、脆拝(左ひざを床につける礼のしかた)しましょう。
- このような体で献げる礼拝では、曖昧な行動を礼拝中にしないように気をつけましょう。私たちは内側の心だけではなく、外側の体でも敬虔な振る舞いをするように努めましょう。ダニエルはそれを知っていました(ダニエル書6章11節)。そして聖ペトロもそうです(使徒9章40節)。天使だってそうでしょう(黙示録7章11節)。敬虔な心は、私たちを敬虔な体にするものです。
- (H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)
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