(92)ハーケンクロイツ(鉤十字)

『み心がおこなわれますように』と私たちは主ご自身の言葉で祈ります(マタイ26章42節)。それはちょうど天国で、(私がなりたいと望んでいる)聖人たちによって行われているように、私という地上の人間によって行われることを期待した祈りです。しかし、しばしばそれは簡単なことではありません。そのことをもうあなたはよく知っているでしょう。クリスチャンには、やりたいけれど禁じられていることがあります。またクリスチャンの行うべき義務は、往々にして、全く自分の望んでもいないものです。すべての人に対して、病気、悲しみ、失敗、失望、愛する者の死(ヨブ記5章7節)がやってきます。しかし、クリスチャンはそれを直視するように努めます。その出来事の中に、まだ自分にはわからない理由 ―― 神様の意志を見ようとしているからです。すべてのことがっまくいっている幸せな日と同様に、仕事でも遊びでも、病気などの嫌なことが起こる悲しみの中にも、すべてのことには、そうなることを望んでおられる神様の意志があるのだ、とクリスチャンは心の中で考えるよう努めているのです。まず第一に主ご自身が、そのとおり実行することはむずかしい、と私たちに教えておられます(マタイ7章13〜14節)。特に『私たちの自由意志』と『友人たちの誘惑』が、神様の意志を私が実行しようとするのを妨げたり、あざ笑ったりするのです。(友人とは親しく愛し合っているのですが。)

二つの十字架の選択について考えてください。鉤十字とキリストの十字架です。あなたはこの二つともを選ぶことはできません。鉤十字は第二次世界大戦中のドイツ政府のシンボルですが、これは元々は太陽礼拝を表す象徴です。その意味は『わがまま、快適、ゆとり、怠惰な生活』です。あなたが怠惰な生活をしていると、だれにも注意力行きません。これは利己主義のシンボルです。キリストの十字架はクリスチャンのシンボルで、鉤十字とは全く反対の立場を表します。『修練の生活、服従、自己管理、自己犠牲等』を表します。だれがどんなことを言っても、あなたが何を望んでいても、神様が望まれることを努力して行うのがキリストの十字架です。ですから厳しい生活です(マタイ10章34、38節)。この祈願を通して、あなたは自分が正しい十字架を選べるように祈ります。

しかし、そのクリスチャンの生活力が不幸だとは考えないでください。そうではありません。それについては次に話します。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

楽しい問答会