(102)後光

聖人の絵には、しばしば頭に金の後光があります。これは光の輪です。この絵には、十字架のまわりに太陽の光の表示があります。よく見かけるでしょう。

これらは『グロリア』(栄光)と呼ばれています。それらは美しいですが、絶対に必要なものではありません。この主の祈りの最後の部分は、グロリアのようなものです。それは良くて、美しいです。しかし、絶対に必要なものというわけではないので、しばしば省かれます。四人の福音記者(福音書を書いた人)のうち、ただ聖マタイと聖ルカだけが、主の祈りを記しています。前者はグロリアの言葉で終わっていますが〔日本のものにはありません(マタイ6章13節)〕、しかし後者は省略しています(ルカ11章4節)。あなたがそれを言おうと言うまいと、好きなようにしてください。それはちょうど詩編を読む時に、最後に栄光の歌(栄光は父と子と聖霊に、初めのように、今も世々に限りなくアーメン)を付けるか、使わないか、みたいなものです。

これは全く祈願ではありません。これは頌栄と呼ばれています。『賛美の言葉』という意味です。それは、ダビデが言ったことと似ています(歴代誌上29章11節)。

もしあなたがそれを言うなら、その意味は、こうなります。

『私は神様がすべての人と被造物の王であると信じます。』
(ですから、恐れることはありません)

『私は神様が私の祈ったことをかなえてくださる力を持っておられると信じます。』
(ですから、かなわないことは、神様がそれを私に望んでおられないということです)

『私は神様にだけすべての栄光が過去においても未来においても帰されると信じます。』
(ですから、私は高慢になったり、得意になる必要はありません)

『そして私は神様の主権(威厳)と神様の力と神様の栄光は終わらないと信じます。』

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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