|
(113)事柄の中心
|
- 悔い改めの第一の部分。もしユニオンジャックが半旗で旗竿に掲げられているなら、この外側の目に見えるしるしによって(サクラメントのように)、悲しみの中にあることを表しています。英国のだれか要人が亡くなったのでしょう。もし、私たちが罪の赦しを得たいならぱ、神様に先ず私たちが真に悲しんでいる心のしるしをお見せしなければならないでしょう。これを「痛悔」と言います(詩編51編19節)。そして、灰の水曜日の特祷には『どうかわたしたちのうちに悔い改めの心を新たに起こしてください』という言葉が出てきます。神様の恵みも硬い心には、染み込んでいくことはできないのです(マタイ13章4〜5節)。
- 罪悪感と呼ばれる罪への悲しみがあります。それは刑罰の恐れから起こるものとは違います。聖パウロによって『世の悲しみ』(Uコリント7章10節)と呼ばれているものでもありません。イスカリオテのユダの持っていた自殺へと導くもの(マタイ27章3〜5節)でもありません。痛悔は、神様の愛の痛みや心の悲しみです。それは聖ペトロの悲しみ(マタイ26章75節)、そして懺悔した泥棒の悲しみです(ルカ23章39〜43節)。それは神様からの贈り物ですから、すべて罪の赦しを本当に欲し、祈る人に与えられます。あなたが個人懺悔の準備をするのに、灰の水曜日の特祷は助けになるでしょう。
- 事実起こったこの物語も、あなたの痛悔に答えを示してくれるでしょう。
- ふたりの男が教会にさしかかりました。案内板を見ています。そこには、個人懺悔の時間が掛かれていました。ひとりが言いました。「君には、あそこへ行って神を冒涜するような懺悔はできないだろうな。」すると、もうひとりが「できるさ。ボクは神なんか恐れてない。そしてあの間抜けな牧師のこともね。」と答えました。そして教会の中で司祭のそばにひざまずいて言いました。「私はこれこれのことをしました。あれもこれも。そしてちっとも悪いとは思っていません。私は神に対して罪を犯し、他人にも自分自身にも犯しました。そしてそのことをちっとも気にしていません。」賢明な司祭は、彼の懺悔を中断させませんでした。彼の話が終わった時、ただ言いました。「息子よ、さああの十字架のそばへ行ってひざまずこう。そしてもう一度、私に言ったのと同じことをすべて言いなさい。」時間が過ぎて、外にいた友人は待ちくたびれ、教会の中に入って行きました。彼が驚いたことには、その男は十字架上のキリスト像を見上げていました。そして、涙が彼の顔から流れ落ちていました。
- (H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)
|