(138)橋の向こう

二種類のクリスチャンがいます。聖職と信徒(聖職に按手されていない人)です。信徒の何人かは聖職になります。聖職には、ただ召命(呼び出し)を受けた、という信仰によってなります。その呼び出しの第一の目的は、神様が彼らをこの世に遣わされる、ということです。彼らは自然に彼らの自由意志で、この絵のような想像上の橋を渡ります。それは、ちょうど主が漁師の兄弟にしたように(マルコ1章19〜20節)、神様が彼らに呼びかけられたのを聴いたからです。

神様の司祭選びは予想できません。神様は聖職をあらゆる状態の人々の中から選ばれます。大学で高等教育を受けた人からも、そうでない人からも、金持ちからも、そうでない人からも。これは神様だけの責任と選択によります(ヨハネ15章16節)。

そして、だれも神様が次にだれを選ぼうとしておられるかわかりません。どんな人が、どんな時、どんな方法で神様の司祭の一人になるように呼びかけられるか。呼び出しは、たとえば説教とか本とか両親とか良い司祭を通して来るかも知れません。あるいは、突然、静かに、祈りの時間に来るかも知れません。しかし、それが来た時、その人は、神様の声だと知るのです。良いクリスチャンであるその人は、おびえることもあわてることもなく謙遜に答えます(イザヤ6章8節)。

このカテキズムを学んでいる人は、このことを心に留めておいてください。神様はあなたを司祭になるように呼んでおられるかも知れません。もし神様が呼んでおられると思ったら、どんな時でも司祭に話してください。これはあなたと神様の間のことです。召命なく、まちがった理由で司祭になった者ほどみじめな者はいません。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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