(163)独立

問 :私たちが、聖餐に与かる者としてそれから得る恵みは何ですか。
答 :私たちの肉体がパンとぶどう酒で強められて新しくされるように、キリストの体と血によって私たちの霊魂が強められて新たにされることです。
                     (同)

聖餐の中には、受聖餐者のあり方と関係なくキリストが実在している(現臨)、ということを覚えておくことは重要です。祭壇のスナッブに少年と少女が並んでひざまずいています。彼の方は死ぬべき罪を赦されていません。彼はただパンとぶどう酒を受けるのだ、と考えています。彼女の方はずっと個人懺悔し、聖餐は私たちの主である、と信じています。どちらにも司祭は同じ言葉で同じものを与えます。それぞれはサクラメントの外側の部分を受けます。パンとぶどう酒です(Iコリント10章16節)。それぞれ内側ではキリストの体と血を受けます(Iコリント10章16節)。ふたりとも神様を受けます。

現臨ということで、英国の戦争中の言葉を思い出します。『それはすべて私にかかっている』という貼り紙ですが、誰かがいたずらして『それはまったく私にはかかっていないことだ』としてしていました。聖餐式では、聖別の行為だけが(152)、司式する司祭にかかっています。聖餐についてのこの確かさと保証は慰めになります。按手された司祭がどんな人であっても、司祭が聖別したパンとぶどう酒の中にはキリストがおられるからです。

しかし、このことも忘れてはいけません。すべての受聖餐者が、“恵みを受けている者”ではない、ということです。あの少女は良いものを得ました。あの少年はそうではありません。事実、聖餐を受けなかったら彼のためにもっと良かったのです。不信仰な、心に神様のものを与えるのは危険です。ただ彼女だけがエリヤのように(列王記上19章4〜8節)天使の食べ物で霊魂に力をいただいて、新たにされました。彼女の霊魂だけが、聖餐を受ける用意ができていました。どのサクラメントも(シンデレラの美しい漫画のように)魔術的に私たちをほかの何かにかえるものではありません。私たちが望めば働くでしょうが、まったく関係なく働くものではないのです。『神様は自らを助けようとする者を助ける』ということです。自分の意志が必要なのです。

だから、“恵みを受ける者”になることは、自分にかかっています。聖餐の準備がいかに大切かわかるでしょう。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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