第5章 自分自身で考えよう
『理性が働いて、啓示は認識できるものになる.』
(ジョン・ティロットソン。カンタベリー大主教。1691年)

『大切なのは、問い続けることである。好奇心には理性が存在しているのである。永遠の神秘や生命や実在するものの素晴らしい構造について熟考するとき、人は畏敬の念を抱かないではいられない。聖なる好奇心を決して失ってはならない。』
(アルベルト・アインシュタイン)

『大多数の人々は、信じるか疑うかの基準で生活している。ところが天才と言われる人々は、何でも信じている。』
(T.S.エリオット)

この前の学習(教会における神様の啓示)で、聖公会の伝統について考えてきました。それは私たちの歴史の中から得られた知識、祈り、経験をもとにしているものです。しかし、私たちの信仰の土台は三本脚の椅子のようなもので、第3の脚は理性―人間の知恵と探究なのです。

アメリカ聖公会の宣伝文句に「すべての答えを持っている多くの宗教の唯一の問題点。それは質問を許さないことである」というのがあります。聖公会では、質問を許すだけではなく、その質問を奨励するのです。

人類のことをホモ・サピエンスと呼びますが、これは考える動物という意味です。神様は私たちに自由と自分自身で考える能力を与えてくださいました。だから、その賜物を使うことを怠る時、私たちは人類以下になるのです。ある現代の神学者は、そのような怠りを原罪である、と主張しています。アダムとエバが高慢と不服従の罪を犯すずっと前に、蛇に自分たちのことを考えさせて、自分たちは考えることを拒否することで、すでに怠りの罪を犯していた、とその神学者は指摘するのです。

まさにこの罪によって、ジョンズタウン(人民寺院・1978年)やウェーコ(米国テキサス州の町)の悲劇が起きたのです。その人々は、人をだます指導者に、疑問を抱くことなく従って行くようになってしまったのです。同じ罪が、ナチス・ドイツのガス室やミーライ(1968年米軍が一般住民を虐殺したソンミ事件の発祥地)の大虐殺の背景にあるのです。人々は、疑問を抱くことなく、自分自身で考えることをやめて、指導者に従ってしまったのでした。

いかなる時でも、私たちが自分自身で考えるという、神様が与えてくださっている権利を放棄する時には、私たちは罪を犯しているのです。私たちは神様が意図した存在以下になってしまいます。

ですから、聖公会は疑問を持つことを奨励します。福音は、私たちが選ぶすべての試みに対して、それに堪えられると、私たちは信じています。もしそれに堪えられないなら、それには私たちが献身するほどの価値はありません。

ですから、私たちは全く恐れを感じません。確かに、ジョン・スチュアート・ミルが私たちに言い残したように、意見の衝突から来る真理には、常に誤りが伴うからです。

バランスを保ちましょう。

これら信仰の三つの"脚"― 聖書、伝統、理性は、聖公会独自の所有物ではありません。

プロテスタント教会は、聖書に長い間、不可謬の権威を主張してきていますが、明らかにそんなものはないのです。

ローマ・カトリック教会は、少なくとも第2バチカン公会議の時までは、教会の伝統に重点を置く傾向 ―教会に不可謬の権威を与えること ―がありましたが、明らかにそんなことは言えないのです。

他のクリスチャンのグループは、人間の理性や経験にほとんど不可謬の権威を与えています。20世紀はじめの「自由主義」の運動は、しばしば私たちの知的な活動の功績を強調しすぎましたし、自分たちの個人的な経験を強調するいくつかの現代のカリスマ運動は、時々彼ら自身に不可謬の商標を付けることで、罪を犯してきました。

真実として言えることは、椅子のどの脚への排他的な依存も、ほとんど常に柔軟性のない、律法主義に陥ることになるということです。椅子がまっすぐに立っていたいのなら、三つの脚は一緒に存在しなければなりません。そしてアングリカニズム(聖公会主義)に特別の特性があるとするなら、それは私たちが三つのすべての脚をバランス良く共に保つことです。もし、その三つが常に不安定な状態にあるというのでないのなら。

それでは、聖公会員は何を信じているのでしょうか。

聖公会員が何を信じているかを記述することが難しいのは、聖公会には独自の信仰がないという事実があるからです。

1661年、ダウンのジェレミー・テーラー主教は、この点を擁護する必要性に気付きました。彼は「皆さんは英国聖公会に、何を要求するのですか。私たちには、神の言葉、使徒たちの信仰、初代教会の信経、最初の四つの教会会議の信経、聖なる儀式、素晴らしい祈り、完全な聖奠、信仰と懺悔、十戒、キリストの説教とすべての教え、福音の助言があります。私たちは良き業の必要性を教えます。私たちは神様へ服従して生活しており、神様のために死のうと思っていて、そしてそうするようにと要求された時、私たちはそうするのです。私たちは神様の聖なる名を誇って語ります。私たちは神様を礼拝します。私たちは神様の僕たちを愛します。私たちはすべての人たちのために祈ります。私たちは、すべてのクリスチャンを、最も間違っている同胞たちも含めて愛します。私たちは神様と、私たちが傷つけた同胞と、神様の奉仕者たちに、恥ずべき行為や当惑した良心による罪を告白します。私たちはしばしば聖餐にあずかります。私たちの司祭たちは、罪を告白している人を赦します。私たちの主教は司祭たちを按手し、洗礼を受けた人に堅信式をし、彼らの人々を祝福し、彼らのためにとりなします。その上に、何を欲するのですか。」

『ベルジャエフはしばしば、私たちのほとんどが、次の有力な見解を受け入れている、と言った。「中世においては、"ぼんくら"は信者だった。独創的な思想家は無神論者か不可知論者だけだった。今日の西ヨーロッパでは、違っている。ぼんくらは無神論者で、独創的な思想家はクリスチャンである。」と』
(シスター・アンナ)

『私は理性的になれるか、と問う。私は信仰に気付くか、と論じる。』
(ピーター・アベランド)

300年近く過ぎて、カンタベリー大主教のジョセフリー・フィッシャーは、もう少し簡潔に声明を発表しました。「私たちには独自の教理はありません。私たちはただカトリック(普遍的な)の信経に納められているカトリック教会のカトリックの教理を所有しています。そしてこれらの信経に加えることもまた削ることもなく保っています。私たちは岩の上に立っています。」

聖三位一体である神様

聖三位一体の教理の定式は、説明方法のたとえです。聖書の啓示と厳しい討論が初期の避けられない問題の解決のために展開されました。

聖三位一体の教理 ―― 神様は一つの中に三つの位格があるということ ―これは全く理解できないことです。少なくとも冷静な論理的方法では。それは啓示された真実であって、その真実は教会の経験からできあがったものです。

私たちはこれらの事実と直面します。

1.旧約聖書の中に啓示された神様は、ひとりの神様です。ユダヤ教の信条にはこの言葉が含まれています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6・4)

2.この基本的な事実はイエス様によって再び主張されました(マルコ12・29)。しかし、イエス様の弟子たちは、イエス様の中に神様を見たのだ、と確信したのです。トマスが復活した主と顔と顔を合わせた時、「わたしの主、わたしの神よ。」と叫んだのです。イエス様はその称号を次のような言葉で受け入れられました。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20・28〜29)

3.しかし、イエス様はまた、聖霊について「父のもとから来る」と言いましたし、イエス様自身とも異なった存在です。イエス様は「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとする弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15・26)

4.ですから私たちには初代教会の証言があるのです。最初のクリスチャンたちはユダヤ人で、父なる神様を唯一の神様として礼拝していました。しかし、彼らはイエス様を父なる神様と一緒に並べて、また同時に彼らは、ペンテコステの時、教会に来た聖霊の力も証言したのです。

彼らの神信仰 ―父、子、聖霊―は、聖書の次の節に見られます。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。」(Tヨハネ4・13〜14)

さて、これらの事実は、私たちがそれらを統合する試みをするために、よい理解を与えてくれます。だから、私たちは言葉の限界に向かって突き進むのです。

私たちに言葉は当然、私たちの普通の日常の経験と深く結びついています。ですから、私たちの日常の経験を超えた真実を日常の言葉で表現することはできないのです。そこに私たちの問題である聖三位一体の教理が横たわっています。それは、日常の言葉で理解することはできません。しかし、それは教会に啓示された真実であり、そして私たちクリスチャンの経験の事実なのです。

『私たちの問題のひとつは、独特の人間性を持った生活をおくっている人がほとんどいないということである。私たちのすべては、感情でさえも、受け売りのものでしかない。多くの場合、仕事をするのに、受け売りの情報を頼りにしなければならない。医師や科学者や農夫の言葉を信じて受け入れているのである。私はそうするのが嫌いである。なぜなら、彼らは、無学な私にはない、生きた生活上の知識を持っているからである。腎臓に関する受け売りの情報は、鶏肉のとり過ぎでコレステロールに影響するようなことだが、私は気にせず生きている。しかし、人生の目的や死の意味についての問いに関しては、受け売りの情報は役に立たないだろう。受け売りの神のもとでの受け売りの信仰では、私は生き残れない。もし私が本当に生きるためには、自分自身の言葉、ユニークな情報が必要になる。』
(アラン・ジョーンズ。キリストへの旅)

Q1.テキストは、原罪について、おもしろい定義を紹介していますが、それは何ですか?

Q2.この罪による最近の日本の出来事を何か挙げられますか?

Q3.信仰の三つの"脚"聖書、伝統、理性は、あなたの信仰生活ではバランスよく保たれていますか?今の教会はこのバランスが保たれているでしょうか?意見をお書きください。

Q4.聖公会員は何を信じているのでしょう?

Q5.聖三位一体の教理について、あなたは何かわかりやすい説明を知っていますか?紹介してください。

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第4回のふりかえり

表紙については後回しにして、Q1.から回答することにします。

最初の段落にあるとおり、聖公会の信仰の土台は「聖書」「伝統」「理性」です。見出しに「信経」というのが来たので、戸惑われたかもしれませんが、これは「伝統」の例として展開されていて、後半には「39箇条」が登場しましたね。そして、「理性」については、第5回でやっと登場しました。

Q2.は、初代教会から、洗礼を受ける人への教育、洗礼式の信仰告白の目的で、各地にいろんな信経があったけれど、4世紀頃にはだいぶ形が整ってきたようです。

Q3.は、4ページの「使徒信経」のところを読んでいただけばいいのですが、東方教会では、「使徒信経」は全く知られていませんでした。ローマ帝国の中心的な総主教区は、ローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンテオケ、エルサレムの5つですが、西のローマ以外は、東方教会と言って、現在も違った伝統を持っています。「使徒信経」はローマを中心とした西方教会の伝統なんですね。プロテスタント教会もローマからの流れです。

Q4.のニケヤ信経は、回心者の教育や洗礼の時の信仰告白のほかに、正しい教えのための試験と言うか、アリウスの異端的な教えと戦い、正しい信仰を確保するために作られました。ニケヤ会議でアリウスを敵に回して、論駁したのは、アタナシオという若い執事でした。彼はその後、アレクサンドリアの主教になります。表紙の絵は、どちらもアタナシオだと私は思います。

Q5.についての送られてきた回答を読みますと、「39箇条」という名前は聞いたことがあるが、内容は知らない人がほとんどでした。そして、熱心に、牧師さんから本を貸してもらって読んでみた、という方まで出て、皆様の熱心なのに感心してしまいました。

28条に関しては、聖餐を受ける側の信仰も問われているところが大切ですね。聖餐を持ち帰ったりして、患部につけて、病気を癒そうとする迷信が、実体変化の考えから出てくる危険があったり、プロテスタントのように単なる象徴にしてしまって、聖餐が軽んじられることを避けたかったのでしょう。

「39箇条をどうして日本聖公会は採用しなかったのか」という質問を受けました。八代崇主教は著書の中で次のように解説しています。

「日本聖公会も組織成立(1887年)にあたって、『39箇条』を特定の時代の特定の教会が特定の問題に対処するために作成した文書と判断し、その採用を見合わせたのである。」

関心のある方は、ここをクリックしてください。非常に学ぶところが多い書物です。

表紙について

着ている服は明らかに東方の主教の服で、手には、聖書と三角形のものを持っています。「キリスト教美術図典」(吉川弘文館)には、アタナシオの図像として次のような解説がありました。「白髯の老司教として表現され、パリウムをつけ、手に聖書、または三位一体擁護のしるしに光輝く三角形を持つ。」しかしこの解説には少し誤りがあります。パリウムは西方教会の大司教に使われるもので、絵は明らかにオモフォルという東方の主教のものです。どちらも肩にかけますが、前者は胸の中央に垂らし、Yの字に見えます。一方後者は、左肩から前後に垂らします。
(右の絵が聖書を持ったアタナシオです。)
2000年5月2日
主教教会博士アタナシオの日   
担当者 教育部長 司祭 小林史明



アングリカン