- 『そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』(イザヤ書6・8)
- イザヤは前八世紀、南王国ユダに現われた預言者で、旧約聖書中でもっともスケールの大きな、最初の記述預言者(エリヤ、エリシャなどと違って、その預言の言葉をみずから書き残した預言者たち)と言われている。彼はエルサレムの貴族階級の出で、祭司であったかもしれない。冒頭の句は、ウジヤ王死去の年、彼がまだ20歳台の頃、神から預言者としての召命を受けたときに語った言葉とされる。「われ此にあり、我をつかわしたまえ」。この簡潔な、しかも無限な意味をふくむ応答は、遠くはモーセ以来、すべての預言者に共通する実感的な言葉であり、同時に、神の言葉に仕えるべき特別な召命を受けたすべての真実な伝道者、牧師、神父たちにとり、またさらに広い意味で何らかの尊い使命にめざめて生涯をささげるすべての人々にとっても、その実存を一言で言い表わすに足る珠玉の言葉である。今日にいたるまで、どんなに多くの人びとが、この言葉にふるい立たせられ、さまざまの困難や迫害にたえ、人類と世界の幸せのために身を挺してきたことだろうか。
- イザヤの名を冠する預言書全66書は、1〜39章までは前述のイザヤの言葉の記録とされるが、40〜55章および56〜66章の二つの部分は、文体や思想、また歴史的背景の相違などからして、それぞれ後代の非常にすぐれた二人の無名の預言者の筆になるものと考えられ、普通第二イザヤ、第三イザヤと呼ばれている。しかしそれらに共通する根本的観念は一貫して創造者なる神の聖であり、ちりあくたに過ぎない人間に対する、神の恵みの確かさである。また、イエス誕生の予兆と言えるメシア(救世主)待望の預言も、イザヤ書の特色である。旧約聖書は預言者において、新約聖書と親近性を一段と強めるが、いずれにせよその代表とも言えるイザヤ書において、私たちは、新約聖書が証しするイエス・キリストの福音の、壮大な予告編を聞かされる思いがする。
- メシア預言
- それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる(7・14 → マタイ1・18以下、ルカ2・26以下) ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。(9・6)。 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。(11・1〜2)。 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病いを負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずからこらしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ(53・2〜5)「苦難のしもべ」より(佐伯晴郎著「聖書の人々」より)
- この絵は、パリの国立図書館にある「イザヤの祈り」という絵の一部です。
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